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北アメリカ車旅97 NEW!






7月11日(金)

 白夜の夕焼けはとてつもなく赤い。 今日、泊まっているイエローナイフという所は、現地の案内によると日本人がオーロラを見に たくさんやってくる所だという。かく言う私も、あわよくば見れないものかとここまでやって きたわけだ。途中、無料の渡し舟はあるわ、30kmにおよぶ工事中のドロ沼というべき道は あるわと、いろいろな目に会った。特に工事現場では、元からおかしかったミッション?から 大音響で「キリキリキリ」なる音が発生。もう駄目かと思ったが、なんとか収まり走っている。 あんな「工事中」は、見たことがない。とにかく、目の前を地ならしの車が作業していたり、 砂まきのくるまが砂をぶちまけていたりする中を、進むのだから。新車やスポーツカーなどは、 絶対通れない。しかし、道はそこしか無いから... どうするのだろう。あれは、段取りの まずさ以外の何者でもない。30kmも連続して工事してはいけない。幹線の一本道なのだか ら、もっと考えてもらわんといかん。修理代を請求したいくらいだ。
そうまでしてたどり着いたイエローナイフであるが、モーテル代がこれまたとてつもなく高い。 税込み95ドルは首都オタワ並みであるが、エアコンは無いわ湯は出ないはのボロモーテルが その値段である。ガソリンの値段もあのニューファンドランド以上である。 と、言うわけで、今日はかなり怒っているのだが、ちょっとした楽しい計算違いもあった。 オーロラはこの季節見る事ができない。なぜならば、ほぼ白夜だからである。いま、夜中の 1時過ぎであるが、窓の外にはみごとな夕焼けがでている。日本で言う薄暮の状態だ。先の 現地版案内によれば8月のはじめまで、暗い夜は戻ってこないそうだ。いつものように、 知らぬままに行動してついに白夜のなか原稿を書く事になった。もちろん、24時間テレビ みたいに付き合ったりはしない。 とにかく、オーロラという奴にはいつかお目にかかってやろうと決めている。ここイエロー ナイフでは、晩秋から冬にかけてがシーズンだそうだ。一日1万円以上の宿泊費を覚悟して おれば、飛行機も飛んでいるからやってくることは出来る。 もう、車でくるのはゴメンだ。無舗装路を100km以上はしるのは、本当に疲れる。書き わすれていたが、その工事中区間以外に100km程度無舗装区間がある。私の車に引導を 渡そうとされているようだ。 明日も、それらの道を通って帰る。どうなることやら。

7月12日(土)

 私はツイている人間である。 こう書くと、何人かの知り合いはきっと笑うことだろう。大半の知り合いの間では、私は 「ツカン」男なのだから。事実細かい事、たとえば信号に出会えば赤であるとか、そういうの には滅法弱い。 今日がまさにそういう日だった。この不運は「ビデオが壊れたの巻き」の場合と同じく、固め 打ちのできる打者のように、朝が肝心なのだ。1本でると、どんどんやってくるのである。 朝の不運の細かいことは書かない。2軒の店で それぞれ絵葉書とTシャツを買ったら、あとで 良く調べてみると、絵葉書を買った店では、 同じTシャツが6ドルも安く、Tシャツの店では 絵葉書が50セントずつ安かったというような ものだ。ちゃんとそうなった理由は説明できる が、ここでは書かない。ま、馬鹿な奴だとでも 思っていただければそれは正解である。 その後も、町で一番高いガソリンを入れたり、 トリッキーな道に引っ掛かり30km近く道に 迷ったりした。しかし、そういうのは序曲だった のである。
昨日も書いた無舗装区間と強烈な工事区間を過ぎ、渡し舟にも乗って、イエローナイフの区域 を後にした。今日はその後、昨日の道を通らず我が州であるブリティッシュ・コロンビア州の 方へと抜ける道を通る。しばらく走ると、無舗装区間になった。地図ではあと600km程の 道のりである。まさか、最後までこんな按配ではなかろうと思ったのが甘かった。結局、車の オドメータで650kmのガタガタ道だった。特に、ブリティッシュ・コロンビア州に入って からの200kmが、もう悲惨な道で、固い岩のような道に穴ボコだらけ。ガンガンという石 がシャーシに当たる音が絶えない。 実を言うと、ブリティッシュ・コロンビアには期待していたのだ。この無舗装は北の地、 ノースウエスト・テリトリー(イエローナイフのある州)だからだと確信し、自分の住む州は そんなことはしないだろうと信じていたのだ。ところが、まったくの逆だった。 私は、もう祈るだけだった。なにしろ、人の 住む町は200kmに一つ。通る車もまばら。 そこを、ミッションに不安を抱えたままで 通過するのだから、恐くないわけが無い。石が、 一発変なところに当たっても、車は止まる。 「なんとか、此処をちゃんと通過させて!!」 砂埃のなか、車も私もドロドロになりながら、 最後はほとんどブリティッシュ・コロンビア州 への悪口の絶叫と、道路担当者への抗議メール の文章を考えるだけという状態で、やっと 「バカ道」を乗り切った。 モーテルに着いた時は、ミッションはアイドリング時Pモードでもギャーギャー鳴っており、 もうこりゃ駄目かなと思ったけれど、やがて止んだ。車の周りをチェックしてみると、左後輪の ホイールカバーが無くなっている。ハッチバック式のトランクに入れているコンピューターを 入れたケースなどまで埃まみれだ。 明日は洗車をして、その時の車のコンディションをみて、ユーコンを目指すか、ただ帰るかを 決める事にする。最後はガソリンの減りかたが異常に早かったのも気掛かりだ。どこか漏れて はいないだろうか?なにしろ、すごい道だった。あれは道じゃない。岩原である。  私はツイていると思う。なにしろ、650kmの無舗装路を、ちゃんと生きて乗り切ったの だから。いま、こうして日記を書いている事に感謝せずにはおれない。 しかし... イエローナイフからの道をいれると今日は800km近くの無舗装路を走った ことになる。東京から岡山県、それも広島県近くまで行ける距離だ。 無茶苦茶やね。

7月13日(日)

 夜のアラスカハイウェーを走った。 アラスカ・ハイウェーといっても、アラスカを走ったのではなく、アラスカまで行っている道 を走ったのだ。朝、洗車してからいろいろとチェックしたが、昨日の雑音も出ていないし、 大丈夫と判断して最後の訪問地である、ユーコン準州ワトソン・レイクへと向かう。そこは、 世界中からのナンバープレートや地理標識を集めた場所が有名で、数は3万を越えるという から見物である。ワトソン・レイクまでの道が、アラスカ・ハイウェーを使うというわけだ。 途中の道は、きつかった。やはり、3箇所の工事中区間があり、またミッション?がギャーと 鳴りはじめる。これは、エンジンを吹かすとなくなるから、何か詰まっているのだと思う。 今や、オートマのP、R、N、D各レンジでギャーギャー言うようになった。辛い道を走ると 泣きはじめるというのは、なんともパートナーらしくて親しみが増す話しではある。 さて、アラスカ・ハイウェーの売りは、ロッキー山脈と野生の動物であると思う。ただ、 ロッキーの方は、バンフ・ジャスパー間のハイウェーに遠く及ばないから、ここでは書かない。 しかし、野生動物の方は、こちらに軍配があがる。 ワトソン・レイクへの行き掛けは、昼間であったからか、途中の岩山で山羊のようなかわいい 動物を見たのと、妙な馬みたいなごつい奴と、いつものように鹿がいたくらいだった。もう、 鹿を見たって止まろうとも思わない。奈良県人にでもなったような気分だ。
時系列的に書けば、ワトソン・レイクで見た標識は、「ま、こんなもんか!」程度の物である。 「はりまや橋」よりはマシだと思うが、「札幌の時計台」とはトントンである。ちなみに、 「はりまや橋」「札幌の時計台」「沖縄しゅれい門」を「日本3大スカ名所」というらしい。 個人的には、札幌の時計台は好きだが、あとの2つはさもありなんである。沖縄の分は、最近 城ができて良くなったという噂も聞くが、汚名を返上したかどうかは知らない。 閑話休題。つまり、最後の目的地としては、今一つであったということだ。まあ、これで カナダの全州に足を踏みいれた事になるので、そちらの目的が達せられた事の方がうれしい。 帰りはもう夕方であった。北の国なので11時ころまで薄暮状態が続くから、暗闇よりは運転 しやすい。それに車が減るからかも知れないが、いろいろな野生動物が顔を出してくるのだ。 行き掛けには見なかった、たくさんのウサギ。道端にちょこっと座っている。そして、昼見た 馬みたいなごつい奴。これはカリブーのメスだったようだ。オスに出会ったからわかったのだ。 カリブーはでかい。鹿なんかと比べ物にならない。よたよたと歩くさまは、ジャイアント馬場 みたいである。唯一見掛けたオスは、水たまりの水を飲んでいた。「ゴクゴク」という音が、 10m程離れていても聞こえてくる。もう暗かったのでフラッシュなしでは、1秒近い露出が 必要となり、期待できそうな写真は撮影できなかった。ただ、あとから来た白人夫婦はフラッ シュで撮影していたようだ。フラッシュというのは、野生には刺激が強すぎると思う。
さて、その後も鹿や先のかわいい山羊のような動物などを見ながら、昨日泊まったフォート・ ネルソンを目指す。今日も、そこに泊まることにしたのだ。幹線道路であれだけの工事区間 をみると、とても幹線以外の道を使う事はできない。ユーコンから南に下るには、もう1本 道があるのだが、そういった理由でやめた。 11時を過ぎた頃から、さすがに暗くなる。今日は雲が多く、たまに雨も落ちているから、 昨日より暗闇が早く訪れた。ひどい工事区間を過ぎ、100km出せるという標識を確認して さあ加速しようとしたその時、車の左前方をカリブーが横切った。急ブレーキ。我ながら、 なかなかの反射神経であった。ブレーキを踏んでいなければ、確実に轢いていた。当たったら 奴も死ぬだろうが、なにしろデカイ奴であるから、こちらもダメージは避けられないだろう。 とにかく、轢かなくて良かった。それから、30分後に昨日と同じモーテルに滑り込む事が できた。 殺生といえば、私はこの旅行でたぶん数万匹の虫を殺している。特に、アメリカ、ネバダ州と カナダ、アルバータ州ではひどかった。つまり、蚊やハエである。夜の道を走ると、雨の様な 音と共に、フロントガラスに白い点々が出来はじめる。虫が激突しているのだ。この量は、 すさまじい物がある。アルバータのケースでは、その蚊?のおびただしい死骸が発する魚の ような匂いが、車に充満し困った。フロントグリルにも、びっしりと付いていたからだろう が、なぜ魚の匂いなのだろう。この匂いは本物らしく、車にハエがたかって困った。みな、 フロントグリル目指して集まってくるのだ。リカちゃん人形はネギの匂いだというのとは 訳が違うのである。(この話しは、大阪近辺の一部の人しか理解出来ないと思います。 すみません) さて、明日からは本当の帰路である。 (後記: 文中でカリブーと書いている動物は、わたしの全くの勘違い(論外?)だったようで、  カリブーというのはトナカイのこと。本当はおそらくムース(ヘラジカ)だったのでは  ないかと思います。ディスカバリーチャンネルを見ていて気付き、調べなおしました。  旅先で書いたものに免じて許してやってください。 それにしても、なんであんなに確信的に書いてることやら...  2001/05/04)

7月14(月)

 虹を見た。 この日記を書いていくうちに、最初の一言を考えるのが面白くなり、むしろその一言を作って から書く事を考えている。だから、だんだんキザっぽくなることをご容赦いただきたい。 思えば、この旅の始まりも虹であった。ビクトリアを離れようとしたその朝、きれいな虹が オリンピック山地にかかっていた。まるで、旅立ちを祝ってくれているようだなどと書いたよう な気がする。そして、ほぼ予定を完了したといえる今日、まるで絵に書いたような虹を見させて もらった。 ビデオの広角が今一つなので、全部お見せ できないのが残念である。今まで虹といえば、 もっと円周が大きい物しか見た事がなかった。 だから、例えば黒沢明の「夢」に出てくる虹の シーンなどは、作り物の粋をでていないとしか 写らなかったのである。 しかしこの虹は、まさにほんの目の前に半円を 作っていた。そして、間違いなくその下をくぐ れそうに見えた。色も鮮明で、まるで原色の 絵の具でいっぱい線を引いたみたいだった。 何度も書くが、今度の旅は守られていると思う。それと、節目ふしめに虹があらわれて色々 語ってくれているように見える。この最高の虹は、きっと旅行の無事終了を祝ってくれて いるのに違いない。勇気100倍、車をはげましながら虹に別れを告げた。 ビクトリア行きのフェリーがあるバンクーバまで残り700km。明日は、ホストマザー 宅に居るかもしれない。

7月15(火)

 また、オルタネータをやられた。 オルタネータという言葉は、何度このページに登場したことか。最初は、買いたて絶好調 時点の故障にはじまり、脱落、ピン欠損ときた。そして今朝、いつものようにボンネットを 開けてチェックを始めてみると、なんかベルトの按配がおかしい。とてもゆるんでいるよう に見える。触ってみると、たしかに手応えが悪い。工具を持ってきて締めなおしてみるが、 状況は変わらない。むしろ変になった。これだから素人仕事は困りものだ。そこで、早速 カナディアンタイヤに持っていく。こういう時のために、最近は大きめの町に泊まる事に しているのだ。実は前の晩に位置を確認してある。悲しい用意周到と言える。 ベルトのついでに、オイルも交換してもらう。まだ4000kmちょっとしか走ってないが、 この際出来るだけよい状態で走りたいからである。 さて、簡単な修理のはずだが、やたらと時間がかかっている。マリオみたいな雰囲気の メカニックが奮闘しているように見える。やがて、車から離れてしまった。何か悪い事でも あったのか?近寄って聞いてみる。 「オルタネータの下のボルトが折れてるね」 なんやと!ほんの数週間前換えたばっかりやないか!でも事実は事実。なんでも、ディラー から取り寄せているという事なので、昼過ぎまでかかるらしい。今日の帰宅はこれで無く なった。しかし、この故障によってもう1日日程をもらったようなものである。ゆっくり 走って行くことにしよう。 修理は2時前迄かかり、プリンス・ジョージを後にする。走りはじめてみると、オイルを 換えた時の爽快感が無い。今日はやたらと振動が大きいようだ。何回か町に戻ってチェック してもらおうかなと考えたが、エドモントンのような大都会で直らないものが、小さな 町でなおるとは考えられず、そのまま走る。もう、村がいくつもある所を走っているので、 どうしょうもない不安感というものは無い。でも、緊張の連続で走っているから、いつも よりも疲れがくるのが早い。道端のゴミを捨てる為のスペースに止めて、20分ほど寝る。 このスペースは何十キロかずつに設置されている。ゴミのポイ捨てを防止するための物 らしいが、あまり利用している人は見掛けない。丁度良い、休憩場所ではある。 おかしな事に、とある工事現場でガタガタ道を少し走ったら、振動がすくなくなった。 思えば今朝、オイル交換の為にリフトアップしていたから、そのとき軸の状態が悪くなっ ていたのだろう。それが、ガタガタ道で元に戻ったというわけだ。たたけば直るテレビ みたいなものである。そして、そういった状態の中、走行距離3万キロを達成した。 実を言うと、オドメータチェックという道の標識で調べてみると、我がゴルフのオド メータには3%程の誤差がある。ちょっと、距離を早くカウントしすぎるのだ。だから、 実際の走行距離は、まだ2万9千キロちょっとではなかろうか。しかし、この距離、 誉められても良い行程だと思う。なにしろわずか1月ちょっとで走ったのだから。  さて、朝から500km程走り、あと200kmとなった時、突然目の前に見覚えの ある光景が現れた。雄大な岩山と川が流れるなか、山の裾を鉄道が延びている。ここに たどり着くまで気が付かなかったが、それはまさに昨年のバンフ旅行で記念撮影をした 場所だった。最後尾が見えないほど長い連結をした貨物列車をみて、感動した場所。 そこにやってきたのだ。それはつまり、この大陸を1周してきたという事の証明に等し かった。もう帰ってきたのだという思いが駆け巡り、「よーやったなぁ!」という自画 自賛の叫び声をあげていた。 もちろん、車のダッシュボードをたたきながら、我がゴルフを誉めてやることも忘れな かった。 残り、200kmはあっという間に過ぎ、夜の11時20分フェリーターミナル着。 予想していたとおり、もう船は無いので、夜のバンクーバーを見にでかける。治安が悪く なっているとは聞いていたが、人が棒をふりかざして喧嘩らしき事をしているのを見た のには驚いた。アメリカでも見なかった光景に驚き、そそくさと市内をあとにする。 12時をまわっていたので、マクドナルドすら閉まっていたという理由もあったが。 今日は、フェリーターミナルの駐車場で一夜を明かす事にした。周りにも同じ目的の車が 一杯止まっている。台風で欠航していた青函連絡フェリーを、車の中で夜通し待っていた 日の事を思い出した。使った費用と走行データの入力をコンピュータに済ませ、さあ、 明日はビクトリアである。ゆっくりと寝る事にしよう。

7月16(水)

 やはり、この世は自分を必要としている。 実は、この旅行の目的は、この一言を確認したかったからなのだ。決して偉そうな事を 言っているのではない。もし、世を司る神か仏かが、おまえはまだ世間に残っていなさい と言うのならば、必ずこの旅を無事終わらせてくれるものと信じていた。その必要性が、 たとえ農家の人のために米を食うといった役割でもかまわない。人は、役割があってこそ 生きているのだ。この世での役割が無くなったとき、人はこの世を去る。自分には何か わからないが、まだきっとこの世の為の役割が与えられているのだ。この旅は本当にただ 浪費だけの旅であったと思う。だからこそ、余計に自分の役割がまだ残っている事を 感じずにはおれない。  ビクトリアに帰ってきた。 総走行距離3万619キロ。ガソリン消費、約2415リットル(シアトルーバンクー バー間)、燃費12.6km/リットル、一日の平均走行距離、約850kmというのが 大体のデータだが、詳しくは後日詳細をアップしたいと思う。 家に帰る前に、ビクトリアのマイル0標識へと向かう。いつも記念撮影者があふれるこの 標識が、今日はいつもより輝いて見える。この標識は、自分の為だけにあるんだという 気分に浸る。 ビクトリアの街並みは、あたりまえのだけれどいつもと変わらない。ただ、今日はオリン ピック山地の雄大な山々が見えないのが残念だ。こういう日にビクトリアを訪れる人は、 ちょっと損をしている。富士山の見えない新幹線のようなものだ。 馴染みの写真屋に行き、11本ものフィルムを現像に出す。それから、我が家へと戻った。 オドメータは176579を示し、時間は10時7分だった。近くのガス屋で燃料を入れ て燃費のデータにしようと思うが、あとで良いだろう。どうせ、出がけにけちってシアト ルから入れているので、正確なデータは取れないのだから。何しろ、ここは家に帰るのが 先である。 そうして、出迎えてくれたホストマザーの出してくれた紅茶を飲んだ。 この旅は無事終了したのである。

旅行後画像など

 旅行からすでに2年以上が経過した。 旅行記の最後に、画像をアップしますと書いておきながら、2年も過ぎたことをまずは お詫びしておきたい。 心にはずっと引っかかって来たので、ここにアップしたいと思う。 1.大陸1周を認識した瞬間 (1997/07/15(火))
ここは、1996年に仲間とバンフ近辺を旅したとき通ったことのある道で、この光景を 目にした瞬間、まざまざと記憶が蘇って、感激したところである。ビデオを撮影しながら 何度も感激を口にしている。右側の写真に写っている崖下の黒い線は線路であり、 前にここを通りかかったときは、長い長い貨物列車が通っていた。 大きな大きな大陸をぐるっと廻って、知った光景に出会う。 まるで、世界一周でもしたかのような気持ちになった一瞬だった。 (本文でも出てますね。) 2.バンクーバーを出る (1997/07/16(水))
バンクーバーを朝に出発した。 前日は、バンクーバー港のフェリー乗り場に車を止めて寝た。本文には書いていないが、朝、 突然後ろの車のおじさんが声をかけてきた。 「おれ、フェリー乗るの初めてなんだ。とてもうれしい!ここで待ってればOKか?」 なんて聞かれたと思う。適当にこたえていたら、次にいってしまった。ありゃ、ほんまに 初めてに感激した男だったのかねぇ。 また、搭乗のおりは、前の車が(さっきのおじさんではない)道を間違えて、搭乗装置の 鉄橋の上でバックしようとしたり大さわぎ。まぁ、最後までいろんなことがあった。 船内でこの日記を書いていると、突然到着のアナウンス。乗ったことのあるフェリーだから、 まったく油断していたわけだ。慌ててコンピュータをしまって、車に駆け込んで、間一髪 迷惑をかけずにすんだ。ビデオの中では、「エンジンを暖気しとらん」などとぼやいている。 3.ついにビクトリア上陸 (1997/07/16(水))
すったもんだの末、ついにバンクーバーアイランドに上陸した。ビクトリア行きのフェリー ではあるが、現地に住んだものとしては、上陸点はビクトリアではなく、シドニーである。 ちなみに、ビクトリア国際空港もシドニーにある。新東京国際空港や東京ディズニーランド が千葉にあるようなもん...これは、規模が違いすぎるような気がするが。 右側の写真に薄く写っているのが、一番上に「ビクトリア直進」と書いてある標識である。 4.マイル0標識 (1997/07/16(水))
左の標識がセントジョンズにあるマイル0で、右が今回帰ってきた時のビクトリアのマイル0。 わが愛車が右に小さく写っている。 ビクトリアのマイル0はとても堂々としているが、ちょっとした標識の説明しかない。しかし、 セントジョンズのものには、どこまで何キロなどという看板がでている。 この標識に示すとおり、ビクトリアまで 7775kmと書いてある。 あぁ、今思い出してもとんでもなく楽しい 旅行であった。いつか、自分の嫁さんを連れて、 もう一度この半分でも走ってみたいものだ。 じつは、トップページに出ているモレーン湖に なぜ、今回の旅行では立ち寄らなかったかという 話しの理由もそこにある。 モレーン湖の美しさを見たとき、心の中で思った。 次に来るときは、絶対嫁さんとくるぞ! いまだに、行くことができないでいる。 次は、どこに旅行してやろうか!なんて考えてる間は、無理だろう。 了
旅行データ 期間  :   1997年6月11日から7月16日(35日間) 走行距離:   30619km (ただし、オドメータ誤差−3%程度含まず) ガソリン使用量:2415リットル (最初の給油から、最後の給油まで。実際はもう少し多くなる) 総費用:    約54万円 (車購入費用除く) 上記のデータは、1時間ごとの記録を表計算ソフトに入力した集計結果。 詳細の公開も考えています。
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私の留学をいろいろ助けてくれた「太っ腹」の友達が、社長をしている教材制作プロダクションです。 教材制作のみならず、デザイン、イラスト、文字入力、製版等、メディアに関するいろいろな分野に挑戦しています。