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沖縄紀行





4月6日(木)

 沖縄に行ってみようと思った。  友達がオーストラリアへ留学するというから、久々に会いに行こうと思ったのと、1985年に 初めて訪れて以来、とても住んでみたい土地のひとつということで、人生の選択肢をまたひとつ 増やすための旅というわけだ。 現在の仕事に影響しないように、金、土、日、月と滞在することにし、木曜の晩、仕事場から直接 羽田に向かい、那覇に深夜着。帰りは、月曜深夜羽田着というスケジュールを作った。航空券は、 JTBの「出張応援歌」というサービスを使った。これは、行き帰りと1泊分の料金が格安で設定 され、帰りの日は自由(予約時に日取りは確定しておかねばならないが)と、いうものである。 シーズンによって料金は違うが、わたしの場合、税込み3万5800円であった。  六本木の仕事場を6時30分くらいにでて、8時10分発の全日空89便で沖縄に向かう。 機体ははじめて乗るボーイング777型。経費節減なのか、 機内サービスは飲み物のみ。しかも、ビールは御つまみ付き 500円と別料金。疲れていたこともあって、ビールを買っ てしばしうとうとしていたら、もう沖縄上空だった。 ちょっと遅れて出発したこともあって、到着時刻は23時。 ランディングはとてもスムーズで、あたらしい機体らしさを 実感した。いつものように、手荷物はなかなか出てこず、 こういう時、すぐにでてくる人はええなぁなどと思う。 空港のあちこちに、サミット歓迎の文字が見える。タクシー に乗って1200円ほど、指定のホテルである沖縄ワシントン ホテルについたのは、もう12時近かった。 明日からの予定を作ってくれている友達に到着の連絡をし、 夕飯もまだということで、ちょっと夜遅いことは気になりつつ も、なんか食おうかと外に出た。 さっき乗ったタクシーの運転手さんは、「観光客は増えているけど、レンタカーだらけになったから 商売は駄目」といっていた。それにしても、ちらりとみた夜の町には、空車のタクシーが群れをなし、 ついさっき聞いた話が、とても現実的なものとして感じられる。なにか、ビデオカメラを向けること すらはばかられてしまったので、映像はないが、印象深いものであった。  食うべきか食わぬべきかとふらふら歩いていると、「餃子」という文字が目に飛びこんできた。 この餃子という食べ物は、私にとって魔物といえる。「ラーメンXX」という名前もよく見ずに、 まったくお客さんのいない店に飛び込んでしまった。 「みそラーメンセット(餃子3個とご飯付き)800円」 さっそく注文してから、店のなかを見回すと、屋号が目にとまる。 「ラーメン東京」 あほかいな!東京からわざわざきてラーメン東京に入るとは、中国にいった当日の夕食に、江戸前 すしを食うようなものである。 もう、たのんでしまったので、店を出るわけにはいかず、おじさんが料理しているしばらくの時間は とても長く感じられた。だいたい、わたしにはラーメンを食うという習慣がない。東京の人は、よく 並んででも食べているが、そんなことをしてまで食うほどのものでは無いとわりきっているし、 おなじ食うならそばの方が断然好きだからである。 さて、おじさんが、マニュアルどおりらしくタイマーを何度もチンチンと鳴らしながら作って、 出てきたラーメンは普通の味で、特筆すべきものでもなかった。あとで聞いたら、沖縄でラーメンを 食うということ自体変らしい。それならば、まずくなかったことがすばらしかったといえるだろう。 しかし、なぜ、こんなに一生懸命このラーメン屋について書いているかといえば、まさに「餃子」 なのである。これがとてもうまかったのだ。 とてもやわらかい皮にくるまれたたっぷりの具がとてもジューシーで、口の中いっぱいに広がる味は 格別だった。半人前では満足できず、あと1人前400円を追加して食べた。 この際、ダイエットしてた事など忘れて、沖縄を楽しんでやろうと決めた一瞬でもあった。 一応、餃子を食ったということで、戻りがけに買った牛乳と低脂肪ヨーグルトを飲んでから床にはいる。 さあ、明日からいよいよ南国の生活が始まる。 付記:ワシントンホテルなのに部屋からネットにつながらなかった。 パルス回線なので、ダイヤルごとに少しの間をおいたりして接続を試みたが、駄目だった。 結局、ビジネスマンのように、ホテルの1階電話コーナーから接続。パリとビクトリアからメールが 来ていたので、那覇発のメールを書く。仕事の話だったらしぶいのだが、ぜんぶ私用だった。

4月7日(金)

 沖縄の南部は戦跡だらけである。 15年、10年まえの2度の訪問では、ただ観光地として訪れたこの地に、今日は現地の人の案内の 元、訪ね歩くことになった。 私自身、沖縄戦の事は以前よりかなり詳しくなっている。歴史を紐解くとき、その記録の解釈の仕方 や、立場の相違で、とても違った考え方が生み出される。しかし、現地の人々にとってみれば、それ は、肉親が当事者として遭遇し悲惨な結果となった事実なのであり、その感情を理解することは、 実に難しいことなのだと思う。 ひめゆりの塔の隣に、祈念館が建っていた。県の平和祈念資料資料館も新しくなったいた。 いろいろな資料や写真の下に、天皇批判や軍批判の解説文が並ぶ。そして、沖縄戦の解説では、 「犬死」「捨石」といった表現が見られた。 現在の日本にとって、沖縄戦は決して犬死でも捨石でもないと、私は確信している。あの、多くの 犠牲をともなった抵抗戦によって、日本本土攻撃の困難さが米軍に植え付けられ、その結果、降伏後 の日本の進む道を日本国民が決めることができる由の、「条件」をもった降伏提案へと米軍は軟化する。 無条件に降伏させられたのは、日本軍であって日本ではなかったのである。 硫黄島、沖縄、そしてその双方で行われた特攻作戦が、米軍に与えた影響は、ほんとうに大きいものだ と思う。事実、沖縄戦で多くのアメリカ兵が精神を病んで戦線離脱していった。 「これが、本土戦になったら...」と、米軍幹部が考えたと言われているのは事実だと思う。 まぎれもなく、沖縄戦や特攻は、日本の現在の基本となる部分を守ったのだ。 ところが...である。 沖縄は、もともと琉球王国であり、日本の一部と正式になったのは、明治のはじめのころである。 つまり、日本人にとっては「よくやってくれた」と言えることであっても、生粋の沖縄の人々には、 「違う国どおしの戦いに巻き込まれた」だけであり、日本兵は死を強要したが、アメリカ兵は助けて くれたという意識なのらしい。これには、頭を抱えてしまった。 沖縄の基地問題にしても、国旗の問題にしても、基本となる「日本人だから」という部分から、考え なおさねばいけないとすれば、この問題は深い。深すぎて、とても簡単に議論や、理解などできるもの ではないのだと痛感した。 しかし、ちょっとだけ不満を書かせていただくとすれば、沖縄戦を格好の非難材料としたがる動きの 文言が、「資料解説」の中で目に付いた。たとえば、当時のドイツとソ連の関係を「ファシズムー 反ファシズム」なんて書いてあるのには笑った。まるで、ソ連は良い者扱いである。ヒトラーが良い なんて、口が裂けても言わないが、スターリンは「反ファシズム」としてドイツと戦ったのだろうか? ちまたで話題の、「進歩的」なんとやらといわれる人々の影が見える。 特攻作戦のことも、「数隻の軍艦を沈めたが、たどり着く前に打ち落とされ...」なんて解説する。 あまりにも安易な扱いであって、もっと慎重かつ丁寧なものにしてもらいたいと感じた。 特攻していった人々も、現在の「無効」を強調する論法には、きっと不満だろう。もちろん、二度と そういった歴史をくりかえしてはならないとも、強く思っておられるに相違ないだろうが。 沖縄戦を、イデオロギー闘争の材料にすることだけは、やめてもらいたいものである。 「ほんというと、みんな日本がきらいなのよ」 現地の人がいったこの言葉が、きつく胸に響いた。 いまとなってみれば、沖縄が返還されたことは、本当に良かったのかと考えてしまう。国の運営 において、圧倒的に優れているといわれる米国に組み込まれていたほうが、沖縄の人にとっては しあわせだったのではないか? もちろん、すねて言うのではなく、ではどうしたらよいのか?あるいは、良かったのかと考えた結果、 そうおもったのだ。 ただ、沖縄が日本のひとつの県であることは、現在のところ事実である。 沖縄が「日本の一部」としてやっていくために、日本政府として、もっとこういった史実を多くの本土の 人が知り、感情を理解しあう体制を作ることが大事だろう。そのためには、沖縄の人も、捨石、犬死と いった左翼の煽動のような言葉を捨て、「日本」という単位での考え方を、すこしずつでももっていた だけないものだろうか? 日本にとって良かったことは、沖縄にとっても良かったことだと言うように考えることは、未来永劫 むりなのだろうか? 美しい海岸線を見ながら、悲惨な戦闘を思い浮かべると胸がつまった。 「国」とは、と、しばらく考えてしまったのである。

4月8日(土)

実を言うと昨日金曜日を、暗くすごしたわけでは決してない。 史跡めぐりのあとは、現地の人が行く大衆食堂に連れて行ってもらい、ぜんざいがついたランチを 食べた。これはご飯を、白米、あずき、玄米のなかから選べるので、玄米を頼む。はじめに出てくる おちゃがまた変わっていて、なんとアイスティー。甘い昼食だった。甘いといえば、隣にすわっていた 高校生らしいカップルが、とても礼儀正しく「失礼します」といって、前をとおって帰っていたのが とても印象的だった。東京くんだりでは、あまりお目にかかれない光景だろう。 食堂を出て、色とりどりの魚がならぶ市場を散策し、1400円で映画をみたあと、大渋滞の那覇市を 出て、その日の宿泊地である沖縄市に向かう。 A&Wというアメリカではおなじみのハンバーガショップで、 何年ぶりかにルートビアというノンアルコールの清涼飲料を 飲む。これはちょっと変わった味なので、賛否両論あるところ の飲み物。大体日本の人には受けがわるく、沖縄でもあまり はやってないらしい。アメリカではあたりまえの、おかわり可 (リフィール・フリー)が、ルートビアだけは適用されている ところをみても不人気さがわかる。しかし、わたしゃ、この ルートビアが好きで、向こうでもいつも飲んでいたのだ。 とても懐かしく、もういっぱいといって2杯飲んでしまった。 さて、懐かしさのあとは、ちょっとした用事に付き合う。 沖縄市のカラオケ屋では、モーニング娘。ならぬ、沖縄娘。が、 「Loveマシーン」の振り付けの真っ最中。結婚式の余興と いうことだが、まぁ、そのうまいこと!さすが、安室ちゃんや スピードを生んだ土壌だけはある。今日の練習は2度目という ことだが、見る見るうちにさまになっていく。なにより、楽し そうにやっていることがすばらしい。カラオケ屋なので、わたしも「TSUNAMI」を披露した。 沖縄の夜はまだ終わらない。この日記は、前回の「深さ」との兼ね合いもあって、もう土曜日となって いるが、まだまだ前日の話である。 ついていったライブハウスは、アメリカ人の溜まり場だった。有名な普天間基地がすぐそばにあるから らしい。ビールをのみながら、年配の現地人3人(エレキギター、ベース、ドラム)が弾くロックン ロールを楽しむ。この人たちの演奏にも感激させられた。なにしろ、うまい。 ロック系のライブハウスといったら、学生あがりか学生の、ほとんど下手な演奏しか聞いたことが なかったから、その正確なテクニックと、パンチの効いた音にはびっくりした。 ほんの1時間ほどだったが、とても堪能させてもらった。ここで、特筆すべきことがもうひとつある。 チャージ料金がないのだ。店に入ったら、カウンターにいって飲み物を買って、座るなりなんなり して、音楽を聴きながら飲む。当然のように、沢山のお客が出たり入ったりしている。 音楽が好きな人には、こたえられない空間だ。 こういったノリで、クラシック系をやるところがあったらよいのにとふと思ったが、それだと回転率は 悪くて商売はあがったりだろう。 (後記:普天間基地ではなく嘉手納基地だそうです。宮城さんありがとうございました。) さて、夜遅くに戻ってきたホテルの話題もしなければならないだろう。 今日泊まるホテルは、「でいごホテル」といって沖縄市にある。 この旅は、きままに泊まるところを決めていくことにしている ので、予約などもちろん取っていない。 「でいごホテルが良いのでは?」 という友達の声に、すなおにしたがって連れてきてもらった。 部屋に入ってみてびっくりし、フロントに飛んでゆく。 「この部屋、一晩いくらですか?」 フロントの方は笑いながら、「6500円です」と言った。 シーズンオフとはいえ、ツインかトリプルのシングル使用で この値段はすばらしい。前夜のホテルが電話の件も含めて、 若干不満だったことを考えると「情報はやはり現地に限る!」 と再納得する。ここは観光地だから、ホテルの情報でもそうだ。 「現地の人」「友達」と書いているから、「なんでそこに泊めて もらわないのか」という疑問の声もあると思う。そこは至極 あたりまえの話があって、彼女は3姉妹ですんでおり、ちょっと お邪魔というわけにはいかないというわけだ。  これ以上書くと、フランスのジョークか落語のねたにされそうなので、やめとこう。  やっと、今日の話題にたどりついた。 今日は、南国らしく海に行くらしい。 らしいとはなんとも勝手な発言だが、毎度書いているようにこの旅は「現地をできるだけ知る事」が 目的なので、全部友達まかせというわけである。 10時に迎えにくるといっていたが、車の調子が悪いとうことで、ちょっとばかり時間ができる。 朝の沖縄市の繁華街をしばらく歩いてみることにした。 以前は「コザ」と呼ばれていた沖縄市は、話題の普天間基地がそばにあることもあって、アメリカを とても感じる街である。街の看板には、コザの文字がまだまだ並んでいる。広い通りと、澄んだ朝の 光に照らされたコンクリート色の建物たちが、旅の気分を盛り上げてくれる。 日本を感じるのは、祝森新首相誕生という字がおどる自民党の事務所があることと、塾の前にくれば、 「どこどこ大学に誰が入った」というおなじみの張り紙があることか。塾はいくつもあるようだ。 わたしの夢は塾を開くことなので、興味津々であった。 小さなスーパーによって、面白いものはないかと物色していたら電話がなった。散策は終わりである。 (後記2:つまりこの普天間基地も嘉手納基地の間違いです。すみません!)  友達と、本日行動をともにする彼女の元同僚という青年と、車でビーチに向かう。その前に、 腹ごしらえというから、どこに行くのかと思ったら、なんとこれが米軍基地。と、いっても、基地 の入り口直前にあるスーパーの横にあるホットドッグ店にやってきた。 なんでも、スーパーのほうは、IDの提示を求められるそうで、米軍でなければ買い物ができないと 言う。ホットドッグのほうには、こちらの人らしい人が列をなして買っているから、こちらは良い ようだが、「IDを見せて」なんてちゃんと書いてあるから、おそらく黙認されているのだろう。 現地のひともなかなかこないところらしい。価格表示もドル。メニューもいかにもアメリカ。小さな ポテトチップスの袋がついてくる。 風は強いが、柔らかな日差しが注ぐ中、ホットドッグを食べる。一緒の青年は中部地方出身。仕事で 沖縄にやってきて1年というが、こういった経験はなかなかないらしい。 (後記3:この基地はシールズ基地だったそうです)  左車線を走っているのが不思議なような場所を走って、街中に戻る。友達が、なにやら英語で電話 しているかと思ったら、いきなり携帯電話を渡してきた。 「何!!電話で喋れてか?」 彼女にしてみれば、わたしは1年ちょっともカナダに住んでいた奴であり、あたりまえだという感じ なのだろうが、このホームページをちゃんと読んだかたには、もうお気づきのとおり、私にはとても つらいことなのである。 「コンチワ....」 この電話には参った。しかし、ま、えっかという感じでむちゃくちゃ言って電話を返す。 電話で喋った男は、なにやら今からビーチに行くのどうのといっていたから、どうもこの男と合流 するらしい。ともかく、友達も「モノオジしないね」と、誉めて?くれたからよしとしよう。  左の絵を見ていただきたい。どこかでみたような光景である。 まったく、ここはマイアミ(右)かいなと思うようなところだ。 そして、この場所に米兵をたずねてやってきているというわけで、外国だといっても変じゃない。 ウェス(WES)さんという彼女の友達とビーチへと向かった。この時点では、どこに行くか聞かさ れていなかったが、なんと行った先は米軍のビーチだった。ウェスさんが入り口でサインすると、 中に入ってゆく。ビデオをとってもかまわないとは思うが、何かはばかられてここではとらなかった。 変なことといえば、米軍のビーチのはずなのに、中は左側通行。感覚が変になるから、現地にあわせ ているのだろうと思う。 さて、ビーチにやってきた。あたりまえのようだが、そこは今までのどこよりもアメリカだった。 このビーチはトリイビーチと言うらしい。 今日は、この季節にはめずらしく天気が良いので、友達の友人がどんどん集まってくる。 何人かの米兵もやってくる。ウェスさんは空軍のレスキューチームにいるということだ。その同僚と いうグレッグさんの奥さんは日本人で、彼もかなり日本語を解する。なんでも、冬の岩手山に登った とか。東北の冬山登山といえば、八甲田なんて話もしっていた。 ウェスさんは、マイアミにいたこともあるということで、彼に「まいあみト、ニテルデショ」なんて 言ったら、「マイアミにはリーフがないよ」といわれた。 たしかに、この海は驚くべき遠浅であるが、サンゴ礁なのである。だから、ちょっとはだしで海に 入るなんてわけにはいかない。かなり足が痛む。 「沖縄娘。のメンバー?」である彼女は、ウェスさんの奏でるウクレレでハワイアンを踊っている。 ウクレレは彼女が練習しているものだが、ここは「本職」の踊り。まったく楽しい奴である。 さて、このあとは、グループとひとまず別れて、彼女のおねえさんと先の青年と4人でリゾート地 へと向かった。近くには、サミット会場もあり「取材」にはもってこいである。 これらのスナップは、サミット会場のあるホテルでのもの。ハイビスカスの花や、夕日をバックに したリュートの演奏と、なかなか渋いことをやっている。 遠くに見える会議場は、さすがお国のやることと言える突貫 工事だったそうで、地元も目を見張っているらしい。 現在は、船着場と思われる部分を作っていた。 サミット会場への道は、既に警官が警備していて行けない。 まだまだ時間があるのに、ご苦労さんなことである。 道々にあるふくろう(なぜかふくろうだった)の置物を見て、 「あれに、ロシア人がとおると爆発する仕掛けをされんよう  に、警備しとるんとちゃうか?」 などと、軽口をたたきながら、遠景を見物した。 さて、このホテルからも夕日がきれいに見えていたのだが、さらにきれいな場所を求めて北に移動 しはじめた。こういったことをやると、なかなかうまくいかないもので、「たしかにここやときれい やろなぁ。」という山の上の喫茶店にたどりついた時、薄暮の海には色がなかった。 その喫茶店、知るひとぞしるところみたいで、今度行ったときにはぜひよい時間に行ってみたい。 写真もなにもとっていないが、沖縄の古い建築様式を使っているらしい建物と、その庭からの眺めは 絶品。しかし、場所はまるで山姥でも出てきそうな山の奥だったと思うほど、難しいところにあった。 この夜は、沖縄名物のひとつである安くてボリュームのある肉をたのしんで翌日への鋭気を養った。

4月9日(日)

オウムやイルカが目の前でみれるリゾートホテルを出て、今日は学校の先生をしている友達のお姉さん の案内で、また南の方へと向かう。私は、10年前15年前と2度沖縄にきていて、これが3度目に なるのであるが、守礼門といえば、「日本三大スカ」のひとつだと、当時現地のタクシーさんに言われ たほどの「小汚い小さい門」だったのが、首里城の再建を機にか、このとおり美しい門に変わっていた。 お札にもなるくらいだから、あのころのままではいけないのだろうか?当日は、まわりの道路が工事中 で、全景を写すと以下のようになる。  再建された首里城は総木造で、沖縄戦で失われた最終の形を忠実に再現しているという。 写真にある宮殿に入るのは有料であるが、これはなかなか面白かった。総木造ということもあって、 靴を履いては行けない部分もある。玉座は龍の彫り物にかこまれて2階にあったが、どうも生活感が ない。この宮殿の後ろ側に再現されていない母屋のようなものがあったと、案内に書いてある。 考えてみれば、宮殿はいわゆる職場であるから、それはあたりまえである。 龍は中国で言うところの王の象徴らしい。ただ、ここの龍は4本角。中国での王は5本角らしい。 中国のほうが1枚上手というわけである。  このお城の近くに、沖縄最大のお墓、つまり王家の墓がある。お墓ということで、映像は何も撮って いないが、これはなかなか見ものであった。石の大きな建造物である。しかし、このお墓も空襲がかなり の部分を破壊したと書いてあった。徹底した攻撃をやったものである。 さて、沖縄は先祖崇拝が主な宗教ということで、一族で自分の先祖のお墓参りをする習慣があるという。 この日も、われわれ観光客とは明らかに違う人々がお墓にきていた。お姉さんに聞くと、まさに王家の 子孫に相違ないという。観光客とは違うといっても、それは格好が普通過ぎるというだけで、逆に全く 普通の人々である。 王様の子孫というのは、どういった考えをするものなのか? お姉さんによると、身近にも何人かその類の人がいて、金はやっぱり持ってるらしい。 なにやら身近すぎて、とても不思議な気がした。  ここからは、うまい饅頭、うまい天ぷらと、本当に現地の人と行動していることに感謝感謝の時間を すごした。ただ、道すがら再びたずねた「ひめゆりの塔」では、意外なことがわかった。なんと、 お姉さんははじめて来たというのである。簡単には行ってはいけないという思いから、ずっと足が向か なかったそうだが、この旅行記のはじめに書いた話を改めて感じた瞬間だった。 少し雨の振る中、南の端を廻って那覇方面へと戻るドライブをたのしんで、今日の予定はほぼ終了。 実質、今回の旅はこれで終わったといってよい。この夜、前出のウェス君のうちですき焼きパーティー。 だしは、「すき焼きのダシ」なる既製品を使うので東京風に近いが、作り始めたメンバーが関西系で、 若干もめたりする。こういうのは面白い。 かなりお世話になったので、皿洗いを一手に引き受けた。外国人の家で皿洗いをするのは久々だが、 そこは慣れたもの。流し台のごみ受けまできれいにしておく。「メリーに首っ丈」のビデオを見た。 英語の字幕を出してもらったので、わたしも楽しむことができた。 なんか、本当に外国にいるようで、ここが日本だなんて信じろというほうが難しい。  夜はまた、でいごホテルに滞在する。さぁ、明日は帰京である。 

4月10日(月)

 この沖縄旅行は、友達に餞別をわたしにいったのと、自分が住むべき場所のひとつとして視察する というのが目的だった。そういった視点でみた沖縄は、思っていた以上に面白いところだった。 安い物価、親切な人々、そしてもちろん美しい自然。 近い将来、本当にお邪魔して、しばらくすんでみたいなと思った。 この日は車を運転させてもらって北のほうに出かけ、古い町並みや赤土の畑、美しい海岸線を見る。 本当にきれいなところだった。また、ゆっくり来たい。 那覇名物の大渋滞を恐れて、19時ごろ出発のところを16時ごろから市内に近づいていく。 案の定渋滞したが、最後まで友達に世話になりっぱなし。裏通りをとおって、無事那覇空港へ。 なにやら、とても名残惜しい気持ちを残しつつ、沖縄をあとにしたのだった。 了
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