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留学について(ページ3)
最終更新日2001年6月18日
5.通学・授業
マグダの家はビクトリアの北東の郊外にある。
1996年5月から通うことになった、カモソンカレッジ・インターアーバンキャンパスは
北西部に位置しているから、通学にはバスを使い、それなりの時間を見ておかねばならない。
バスは、一寸前の文章(長い間書いていなかったので、文章的には一寸前ですが、時間は
かなりたってます。ごめんなさい。)に書いたように、スーパーパスというカードが学生用
として低料金でかうことができ、市内であれば提示するだけで何度でも乗ることができる。
マグダの家から、一番近いバス停は歩いて5分もかからないところにあるが、このバス停には
あまりバスがこない。歩いて15分ほどのところにある分には、倍ほどのバスが止まる。
このバスという奴が極めて西洋的で、確実な時間にくるというわけではない。
と、書いて見てからおもったが、考えてみればバスに限っては日本でもなかなか来なかったり、
来たと思ったら重連でやってきて腹が立つことがあるから、どこでも同じだろうか?
上に載せたバス停は、超高級住宅地のもので、わたしの近所にあったものではないが、
「busstop」と書かれた一本の棒が立っていることが判っていただけると思う。
多くの人が乗降するバス停では、時刻表が貼ってあったり、屋根付きのいすがあったり
することはあるが、少なからずのバス停は、イスさえなく、棒が一本立っているだけである。
ちょっと話はそれるが、この一本棒のバス停で、ビクトリアという街の安全性について思い
出したので書いておこう。
ビクトリアは、わたしが行った頃、本当に安全な街だった。外国=凶悪という印象があった
わたしは、ビクトリアという静かなところにさえ、必要以上に警戒をしていたものだが、
ある光景をみてから完全に氷解した。それは、聖書の勉強会の帰り、いつも最終付近のバスを
使ってかえるのだが、バスが町外れの街灯も無い闇に立つバス停の棒にやってきたとき、ヘッ
ドライトに浮かび上がってきた人の影を見たときである。なんと、若い女性がバスを待ってい
たのである。日本でも、ちょっとした都会なら、かなりの危険を感じる状況だと思うが、
このすばらしい田舎町は、そういったことがあたりまえな街なのだ。
ビクトリアから韓国に旅行した知り合いの親族が、空港でバッグの置き引きにあい呆然とした
という話も聞いた。ビクトリアの人にとっては、そのような警戒が無縁であるので、日本人に
対する「海外渡航心得」みたいな話まで出回っていたわけである。
ただ、あまり安全だからといって気を抜いてはいけない。わたしが聞いた話だが、日本の若い
女性の留学生が、街で「日本語を教えてくれたら英語を教えてあげる」と男性に声をかけ
られて、その男のうちまでついて行ってレイプされ、傷心で帰国したという。それを聞いた
時、「そんなのレイプじゃないし、それでビクトリアの評判を落としたくないな」と思った
が、ビクトリアという街はそれほど警戒感をなくさせてしまう街であるとも言えるだろう。
人として、最低限の警戒はさすがに必要である。
話をもどそう。
インターアーバンキャンパスに出かけるには、バスを2度乗り換える。マグダの家の近くの
バス停から乗って、しばらく行くとダグラスマッケンジーの交差点に出るのでそこでバスを
おりて、次のバスを待つ。ここは、前に書いたKマートがあったところで、映画館なんかも
ある小規模なショッピングモールになっているが、朝の時間にそういったことは無縁だ。
マッケンジー通りを走るバスに乗り換えて、今度はかなりの距離を走ると、インターアーバン
の通りに出て、ここでカモソンカレッジ行きのバスに乗る。ジラーとはじめていった時に
使ったのは、一旦ダウンタウンまで出る方法で、これなら乗り換えは一回だが、かなりの
遠回りになるので使わない。
ビクトリアのバスは、前乗り式のワンマンカーで、降りる時は中ほどの扉を使う。
はじめてジラーとこのバスに乗ったとき、乗り降りの手順について、目をサラのようにして
観察していた。ワンマンカーなのに、日本でおなじみの「降ります」ボタンはどこにも
見当たらない。どうするかといえば、長いロープのようなものが、車の両側を走っていて、
これを引くと「next stop」というサインが出るようになっている。
降りるときは、運転手がドアを開けるわけではない。これは、バスによって異なるが、
降り口のステップに乗ると自動的に開くものと、手で棒状の取っ手を押せば開くものと
あった。このステップはたまにうまく動かず、止まってからドンドンと踏みつけたことが
ある。わたしと同じ事をやっている人も何人かみかけた。
さて、多くのバスが、「ノーステップバス」として運行されている。
これは、車椅子をそのまま乗せることができるもので、バスの前輪部分がおそらく油圧で
上下し、補助装置が作動するようになっている。最近になって、日本でもやっと数台みかけ
るようになったが、こういうことはほんとうに外国は進んでいる。
いま、2001年の自民党総裁選挙の真っ最中である。
わたしは、このビクトリアに住んでから、「本当に人が生きていくこととは」という事に
ついていろいろと考え、その良いサンプルを目の当たりにしつづけた。
帰国した時、日本は不況の真っ只中であった。経済学者諸氏は、「金利の引き下げ」など
よくわからない経済学上の法則を適用しようとしていた。しかし、わたしはそれは逆だと
感じ、いろんな知り合いに文句をいいつづけた。「金利を上げないとだめだ。人が安心して
老後を過ごせる仕組みをつくらなければだめだ。そうしないと、人は不安を感じて、金を
貯めつづけるだろう。いま、人類、特に日本は、文明以来はじめての状況を迎えつつある。
それは、超高齢化社会だ。そういう経験を経済学は一切もっていない。それなのに、以前の
経済学を尊重して策を考えることは、完璧に愚鈍である。」
自慢話を書こうという気持ちは毛頭ない。ただ、これを言っていたのは、97年の夏の事
であり、それから数年して、やっとそんな論評を見るようになったとき、ちょいと鼻が
高くなったことは間違いない。しかし、まだ、日本の国はその愚に気がついていない。
気が付いていれば、どうしなければならないか、もっときちっとした策を出すはずである。
わたしに言わせれば、それは「超高齢化社会でも安楽に生きてゆける事を示す」ことだけ
だと思う。それには、いまのままでは無理だ。政治家は、人気取りにはしらず、構造を
改革し、無駄を無くし、その分を福祉に廻さねばならない。かなりの出血はともなうと
思うが、それには政治家のカリスマとマスコミの賢明さが必要となる。韓国が数年前、
本当に「倒産」寸前となったとき、政治とマスコミは一体となり、国民に窮状を訴え、
金の個人寄付など戦争中さながらの国民一致大勢で乗り切った。
いま、政治家に必要なこと。それは、「日本は本当に危ない。あなた方の老後が、本当に
不安なことは理解している。だが、あきらめてはいけない。いまから10年間の計画で、
その不安を払拭する政策を行う。それには、大変な苦労をともなうだろう。税金もあげ
なければならない。公的事業の予算も削減されるだろう。しかし、わたしは約束する。
10年後、笑って子供の顔を見ることができる世の中になっていることを。不安の無い
人生が待っていることを。」
この一言を宣言できるということである。
ここに、言っておく。今出ている4人の候補には期待できない。それどころか、まったく
さかさまのことを言っている東大出の不細工な男すら候補になっている。本当に国の先行き
に不安があるときに、「税金を下げる」の「子供の時代に借金を持っていっても良い」のと、
いまの人への人気取りだけに終始しようとする馬鹿さ。もう、論外を超えている。
税金を上げろとか言えば、すぐ「フーバー大統領のことをしってるか?」なんていう人が
いる。あほらしくて、反論すらできない。フーバーの時と、今では状況が違う。人の構成、
貧富の差、みんな違うのだ。しかし、フーバーの時に起こった事が怖くてなにもできない
のが、経済学という経験のみが基本となる学問の悲しいところだろう。
さらに言えば、「ベビーブームをもたらす政策」も必要だ。時代は待ったなしの状況に
なっているのだから、こういうことについて、言及する人が政治の中心に座ってくれればと
熱望する。
ここまで文句をいうなら、自分が行動を起こすべきだとよく言われる。もちろん、そうい
う事も考えてゆかねばと思っている。
なにを書いていたのかわからなくなってきた。これは、留学についてだった。
しかし、留学という行為は、本当に自分の国というものについて、再認識できる良い機会
だということも間違いないことである。
わたしは、幸運にもそういった機会を得ることができた。本当に感謝している。
さあ、バスの話(だったようです)のあとは、いよいよ授業の話としよう。
カモソンカレッジ・インターアーバンキャンパスでのスナップである。
カモソンカレッジは、わたしが通っていた当時、ランズダウンとインターアーバンの2つの
キャンパスを持っていた。ランズダウンのほうが、古く、またこの学校の象徴ともいう
べき時計台があるが、インターアーバンは、新しく、設備がよいところだった。
上のスナップをクリックすれば、現在のカモソンカレッジのHPにジャンプできるので、
興味のある方はご参照いただきたい。
さて、日記を見ると、96年の5月6日に学校が始まっている。丁度5年前だ。
いや、もう5年も前になるのかと、これを書きながら驚いている。
その日の記憶は何も無いといってよいのだが、ほんの一つ鮮明に残っている記憶。
それは、アフリカからきていたネグシ(名前)のおなら。
この話は、以前にちょっとした例として書いている。
トイレに入ったら、肌の浅黒い奴が一緒に入ってきて、大の方に行った。
わたしが小用を足していると、「ぷぅ」というサウンドが...
もちろん、その時点で彼がネグシであることは知らなかった。その後同じコースで、
勉強したから名前がわかったのだが、彼がネグシであろうと誰であろうと良かった。
それは、アフリカ人でもおならをするんだと知った瞬間だったわけである...
「おまえ、あほか??」
と、だれもに言われるに違いない。とんでもない差別論者といわれてもしょうがない。
しかし、島国日本だけに30年も生きてきた奴としては、学問としては知っていても、
何か釈然としてはいなかったのではないか?
昔からよく言われる「吉永小百合はおならをしない」という話と、同じレベルの話
なのだ。だれもが吉永小百合でもおならをすることは知っている。しかし、聞いた事が
ある人は何人いるだろうか?もし、聞いたらきっと感動するに違いない。
ちょっと、例がぶっ飛びすぎだとは思うが、わたしは小便をしながら、大真面目に
感動していたのである。
ネグシのほかにも、国際色豊かな同級生が同じクラスで勉強する。
通学のバスの中で、笑顔のかわいい男と良く一緒になるなとおもったら、同じクラス。
このダグ(本名、キムサクソン)は韓国人で、彼とは今でもメールや電話をする仲。
ほか、印象に残っている人物といえば、隣の席によくなった、クロアチア人のマリアナ
さん。紛争でカナダに移住したが、その前は学芸員などをされていた人。このおばさんは、
ちょっとしたことにも意見を言うので、一部の同級生からはうるさがられていたが、
本当に親切な人だった。クロアチアの人にはああいう人が多いのかなと思うと、
行ってみたくもなる。彼女のもう一つの特徴は、発音。Rを言う時、下をぐるぐる巻きに
するから凄い。判らんもの同士で喋るのだから、それだけでも大変なのに、発音が...
と、思っていると、マリアナさん曰く、わたしの発音は聞きやすいとのこと。同じ組に
いたオサムくんという日本人の言ってることは、まったくわからんが、あんたのはわかる
よ。と言ってくれた。オサムくんは、わたしから見れば数段英語が良くできるのに、
何が違うのかといえば、そのコースを受け始めたころのオサムくんは、英語を英語らしく
話すのが苦手で、「でいすいずあぺん」流の発音をしていただけである。わたしは、
どうせわからんのならと、小林克也ではないが、「英語らしく」喋るようにしていた。
このマリアナさんの一言は、日本の英語の学習方針の問題について考えさせられるもの
だった。クロアチアの人も、カナダの人も「子音」を聞くことができる。我々日本人は、
残念ながら基本的には聞くことができない。だから、「でいすいずあぺん」流の、発音
でも、「This is a pen.」でも、同じだと感じてしまう。
きっと、マリアナさんには、こう聞こえたのだろう。
「Disu izu a pen」
つづりを見れば歴然とするが、This is a penとは、似ても似つかない
ものなのだ。これを、英語の初等教育のレベルから矯正しようとしたら、初めから
外国の人に教わるしかない。こればっかりは、きっと日本人が一番苦手な分野だと
思う。初等教育から、正確な英語を身につけるカリキュラムが必要だと思った。
国際的同級生から知ることのできたことは、そんな硬い話ばかりではない。
マリアナさんと並んで、良く机を並べたインド人のコリアンダー。彼は、とても内気
な男で、また、英語もわたし並と言ってよいほどできない奴で、実際、成績もあまり
よくなかった。ところがヒョンなことから、凄い事実を知る。なんと、彼は結婚して
いて、嫁さんはカナダ人とのこと・・・
うーーむ...この路ばっかりは、まったくわからん。どうやって、口説いたものやら、
インド数千年の神秘をもっとよく聞いておけばよかった。とは、いうものの、コリアンダー
と、席を並べていたころ、そんな語彙はわたしにはなかったと思うが。
名前は忘れてしまったが、ドイツから来た人も印象深い。彼は、あまり良い暮らしを
していないとぼやいていたが、クラスの中で成績は上位。なにしろ、ドイツ人である。
わたしとチームを組んで、ある課題に取り組んだとき、わたしが、結果を求めようと
するのに対し、彼は、「課題に取り組む方法」にこだわった。わたしにとって、ドイツ
人と接するのはこれがはじめてだったが、本当にいかにもドイツ人だった。
しかも、彼はそのとき、ドイツ人が良く口にするという文言を、頼みもしないのに、
目の前で普通にやってくれた。それは、「第一に...第二に...」という奴である。
課題を解くより、そっちのほうが面白かったからか、時間が過ぎてしまって、課題が
こなせていない。わたしが、適当に課題の結論を書いていったら、彼は極めて不服
そうな顔をしていた。
そう、自分は留学をしてるんだと、こういうとき本当に思った。楽しかった。
ところで、これを読まれているかたは、少なくとも留学というものに少し以上の
興味を持っておられる方々だと思うが、きっと変に思っておられるに違いない。
「なんでこいつ、英語がさっぱりというてるのに、授業がうけられるのかね?」
その答えについて、次に書くことにしよう。
(ビクトリアの夕方。空が紫色に光ります)
あらゆる分野にプロというものはいる。
今、私自身は、とりあえずコンピュータの仕事をしてお金をもらっているのだから、
それはそれでプロなんだろうと思うが、はたして「自分はプロだ」と言い切れるか
どうかは自分ながら自信がない。
しかしながら、前回書いた「答えは次回」の答えこそ、プロに関連している。
メリールース・マーテル先生。
「レベルテストを受ける話」で書いた、あの遅刻の多い先生である。
このやさしい目をした小柄な女性に出会わなかったら、わたしの留学生活も少々
変っていたのかもしれない。
読み返してみてふとおもったが、どんなコースに入ったかという事を書き忘れている。
わたしは、本来4ヶ月で終了するところを2月で終了する時期である5−6月開催の
コースに入った。このあとは、7−8月の2月コースがあり、通常に戻って9−12月、
1−4月のコースとなる。これらは、先生の休みを円滑に確保するためにそんなシステム
になっていると聞いた。
授業時間は変らないそうで、内容だけが濃くなるとのことだった。何か釈然としないが、
同じ試験をして通過させるのであるから、それでも良いのだろう。もちろん、料金は
2月分である。
授業は午前中2コマだけで終わる。メリールース先生は、このうちの一こまを担当して
くださった。
もう1方の授業をもった方は、コースの教習内容にとても忠実な方だった。しかし、授業は
ほんとうに単調で、おもしろくない。板書を先にざざーーっと書いて、それからその
説明が授業というわけで、時間も無駄が多いし、「このコースは時間がたらない。
教科書のこのページまでやらないといけないので、今日はいそぐ。」などといっては、
強行突破を続けるような人だ。なにやら、日本で批判にさらされる典型のような先生で
あった。わたしはこの授業にぜんぜんついていけなかった。
しかし、もう一方の先生、つまりメリールース先生は違った。
授業の半分くらいは雑談である。教科書に書いてあることは、ざっと読んで、そのあと
内容を雑談みたいにしていろいろ話してくださる。その話の中で使われる単語は、
本当に簡単なものばかり。その話がまた楽しいのだ。英語の話を聞いて、あんなに笑える
なんて、自分はもしかしたら英語ができるんじゃないかと誤解しそうになる。
今から書くことは本当の話である。
一つ目は、文法の話。
わたしは、日本で「現在完了」なんて言葉は知っていても、使い方は全く知らなかった。
もちろん何度も教えてもらってはいた。しかし、大学を出てるくせに、しらなかった。
関係代名詞も知っていたが、どんなものか知らなかった。大学は出ていても、しらなかった。
関西学院大学の名誉のために書いておくが、これはわたしが本当に勉強をしなかったから
であって、学校のせいじゃない。ただ、前にも書いたかもしれないが、高校3年生の時、
英語の時間、「....what....。おい、このwhatは何だ?」と聞かれて、
躊躇なく「何」(whatを訳した!)と答えて平然としていたら、その先生に「おまえ
だけは、大学に推薦しない!」といわれたような奴だったのである。
日本語で教えてもらっても、若い脳みそでも、わからんかったような奴に、英語で、
硬い頭に教えることなんてできるのか?答えは、イエスだった。
メリールース先生は、何度も例を使って、それらをおしえてくださった。
今でもちゃんと判っているかどうかは怪しいところであるが、先の高校の英語の授業の
答えは、おそらくちゃんと答えることができるだろう。
二つ目は、先生と生徒の話。
この話は、総て先生を職業にする人に読んでもらいたい話である。
一つ目の話のような奴だったわたしは、おそらく教える側としても真っ白なノートみた
いなものだったろう。頭が硬くなっている分、かなり書き込みにくいノートだとは
思うが、余白は一杯だった。
その生徒が、二人の先生の前でどういう結果を残したか?
わずか2月の中で何度か行われたテストにおいて、こんなことがあった。
メリールース先生のテストでクラス最高点の99%という、自分でも信じられない点を
とったのと同じ時期のテストで、もう片方の先生のクラスで、なんとクラス最低点をも
取ったのである。
極端な話だが、先生によって生徒はこれほどにもかわるのだ。
自分にあった先生に出会うことができれば、どんな分野であっても、生徒はその能力を
伸ばすことができる。わたしの中学高校の英語の先生が悪かったとは、口が裂けても
書けないし、事実、いまから思ってみても良い先生だったと思っている。わたしが、
その勉強をする必要性を悟れなかった事と、やる気がなかっただけだろう。
大学への進学がほぼ確実な学校に中学から行ったわたしには、中学入試に成功した時点
で「あがった」も同然だったからかもしれない。
話題を戻せば、おそらくメリールース先生ともう一人の先生の違いは、カリキュラム
重視と、結果重視ということになると思う。教えてもらったこと自体は、もう一人の
先生のほうが圧倒的に多かったことだろう。しかし、わたしは何もわからなかった。
メリールース先生が、やらねばならない課題のうちどれだけをこなしていただいた
のか全くわからないが、少なくともいろいろな英語の規則が、わたしの頭に残った。
プロにとって必要なことは、プロセスを完璧にやることではなく、結果を残すと
いうことだ。英語の場合は、もちろん英語を使うことができるようになるという事。
メリールース先生は、本当にプロだったと思う。
さて、今回の最後に一言。
皮肉なことに、もう一人の先生がいてくださったことで、わたしはこんな感想を
書くことができる。もし、あの時の先生が二人ともメリールース先生のような人
だったなら、英語はもっとできるようになったかもしれないが、ただの西洋かぶれ
にもなっていたかもしれない。
何事も経験することが、大事なのである。
(次回は...いよいよ、このシリーズも止めどきでしょうか...)
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