Last update on Mar.22th,1998
スウェーデン紀行
2月28日
3月 1日
3月 2日
3月 3日
3月 5日
3月 7日
2月28日(土)
遠い国にやってきた。
研修でスウェーデンに来ている。どういった経緯かは書かないことにして(実際、よくわから
ない)、ともかく12時45分成田発のスカンジナビア航空984便に乗り、コペンハーゲン
を経由してストックホルムに到着した。
実際は12時45分発が大幅に遅れ、14時過ぎに出発した。コペンハーゲンでの乗り継ぎは
2時間ていどの予定だったので、当然間に合わなかった。これが一人旅なら、飛行機に乗って
いる時から心配で心配で眠る事もできなかっただろうが、今回は日本IBM情報ソリューション
の大西部長にくっついての旅なので、なにかと安心なのである。コペンハーゲンまでの飛行
時間は、なんと11時間45分。シベリア上空をひとっとびである。出発が遅れることが、
チェックインの時点でわかっていた為か、航空会社側は1000円の食券を用意してくれた。
もしかして最後の日本食になるかもしれないと、部長とビールを呑みながら「そば付きヒレ
カツ丼」を食べ、そのあと待ち合い室で散々待たされた後、飛行機はついに離陸した。
飛行そのものは大変快適だったが、なにしろ乗っている時間が長い。機内テレビに写し出される
現在位置に「モスクワ」とか「ザンクト・ペテルブルグ(レニングラード)」などが表示され
るたび、ワクワクする事はあったにせよ、到着したときはもうフラフラの状態だった。
機内放送で、「到着後他国にご出発の方は、日本人の地上勤務員にお訪ねください」という
アナウンスがあったので、もうまかせっきりのつもりでそれらしい人にたずねたら、「Cの
カウンターへどうぞ」でおしまい。結局、チェックインは自分達ですることになる。
しかし、このチェックインは簡単だった。同じ航空会社でもあり、事情は向こうのほうが良く
知っているわけだから、通常のチェックインと同じ按配で終わったという事だ。
ストックホルムまでの飛行機で、偶然隣に座った高橋さんという方が、我々の最終目的地
リンシェーピンに詳しい方だったので、事情などを仕入れさせてもらう。そうこうするうちに、
ついにストックホルムに着陸した。現地時間で20時30分ごろであった。
入国審査で大西部長が先に質問を受けている。なにやら色々聞かれている様子なので、また
ドキドキが始まる。荷物の検査は無いようだ。なにしろ、検査官の人は箱の中にいるので、
手荷物検査など無理である。さて、自分の番が来て、パスポートを出す。「さっきの人と
同じね」「ハイ。ソーデチュ」(これを書くと、大陸一周旅行を思い出す...)「じゃ、
いいわ」と、入国のハンコを押してくれる。大西さんに「何を聞かれてたんですか?」と、
聞いたら「何人で来てるの?と聞かれた」とのこと。私は2人めだったので、極簡単だった
わけだ。しかし、このあと事件がおこる。と、書けばホールドアップなんてストーリーが
常道であろうが、ここは平和そうなのであまりないと思う。さて、何が起こったか?
私の、このページへの映像編集用のビデオが、またしても壊れたのだ。ファインダーの
部分が破損し、撮っている画像がほとんど見えなくなった。だから、今後このページに
アップする画像は、とても苦労しながら撮ったものなのである。
1万円をスウェーデン・クローネに両替する。1クローネは約16円くらいだから、
手数料を引いて589クローネが手元に残った。ほとんどカードが使えるというので、これは
チップと緊急とお土産(コイン)用である。
空港から町の中心部まではバスで移動する。フリーウェイらしき物を走って、そんなに遠く
無いところにストックホルム駅があった。料金は60クローネ。ちょっと高いと感じた。
今日泊まるホテルは、「ホテル・ターミナス」という。日本から持ってきた地図では、
位置が良くわからず、重たい荷物を持ちながら駅をウロウロ。大西部長が町の人に聞いて
いるが、彼もよくわからないらしい。その人が言った方向に、向けて歩いたがどうもそれ
らしい建物はなく、困ってしまった。ストックホルム駅周辺は、ここらで唯一危ない人の
出没するところと聞いている。確かに、若い妙な奴等もいる。そこで、町角でバーガーを
売っている出店で聞いてみることにした。私はファンタオレンジを注文し、道を訪ねた。
彼は、即座にある方向を指差し、「あのマクドナルドの看板の向こうだよ」と、教えて
くれた。さて、ファンタをとって行こうとすると、呼び止められた。「金くれよ」
疲れのあまりぼけていたので、金を払うのを忘れている。「イクラ??」「10クローネ」
「ハイ、コレ、ゴメンネ」といって渡した。
2人はやっと、ホテルにたどり着いたのである。
ところで、ばたんキューとなった自室にて、ふと思った。「ファンタ1本、160円だと?」
これはぼられたか、よっぽどこの国、物価が高いのかもしれない。ホテルも内容の割には
高いようだ。これは、明日事実関係を探らねばと思いつつ寝る事にした。
3月1日(日)
今日が唯一の観光の日である。
朝、いつもあまり食べ無いのに、食事が付いているといえば喜んで食べる。大西部長と
二人で出かけた。西洋の朝食は、シリアルだのパンだののバイキング形式が多い。ここも
ご多分にもれず、いろいろ置いてある。その中で絶品だったのが、青かびのようなのが
たっぷりと着いたチーズとブルーベリーヨーグルトだった。また、一段と肥えるなと
思いつつ腹一杯食べる。
それでも、朝9時頃には行動を開始した。さすが大西部長は念入りにポイントを調べて
おられたので、大変助かる。私といえば、いつものようにふらふらしているえば良いと
ばかりに、てんで調べていないから、まったくの添え物である。
やはり、3月に入ったばかりのスウェーデンは、風が冷たくて、手袋をしていない我々には
かなりこたえた。かといって、今日は日曜日なので店も開いていないから、買う事もでき
ない。
ストックホルムは快晴だ。二人はまず、王宮に向かうことにした。駅前のホテルから歩いて
10分くらいで、王宮が姿をあらわす。周りには国会議事堂や、大聖堂などがあるという
大西部長の解説を聞きながら、日本のお上りさんらしくカメラやビデオを向ける。
これらのスナップを見ていただいてわかるとおり、ストックホルムは建築が自然とマッチ
していて、とても落ち着いた雰囲気のあるところである。ただ、惜しむらくは観光地では
ないので、それらの景観をじゃまする電線や、工事現場の標識が、ぜんぜん気をつかわずに
配置されていることだろうか。ちょっと、気にしてくれても良いと思う。
一歩路地に踏み込めば、左のように情緒たっぷりの
中世の町があらわれる。石畳の上を散策していると、
ショーウインドゥの中までなにか特別なものがある
かのように思えてくる。きれいなロウソクや食器は
もちろんの事、スターウォーズの模型や本までも、
とても魅力的に感じるから不思議である。
ただ、この町は、昨日も書いたとおり、とてつもなく
物価の高い町である。ファンタが160円するのは、
やはり一般の価格だった。
そういった意味では、彼女を連れてくると大変な事に
なる町だとも言える。もちろん、この一言には、
連れてくる人がいない悲しみも大きく含まれては
いるが。
さて、彼此2時間も歩き回っただろうか。2人がたどり着いたのは、「北欧文化博物館」
なる所で、60クローネを払って入った。おおかみの展示や、北欧の暮らし。人気の高い
スウェーデン家具から、車の歴史までいろいろあって楽しいかったが、いかんせん歩き
すぎと、旅の疲れがたまっていたかで2人とも疲れてしまった。隣にある「VASA号
記念館」に行ったら、すぐホテルに帰って最終目的地リンシェーピンに向かおうという
ことにする。ところがこの博物館が見ものであった。
VASA号は、17世紀に建造されたスウェーデン軍艦である。処女航海、それも極近海
でなぞの沈没をしたらしい。それを1960年頃に引き上げてみると、木造船にもかか
わらず、極めて良好な保存状態であった為、博物館を作って展示しているらしい。
17世紀の軍艦を目の当たりにして思ったことは、そのデカさと美しさである。この船
なら世界をめぐることができるだろうなという気分にさせてくれる。館内の説明は、
日本語を含む各国語でかかれているので、楽しく見学ができた。これは50クローネで
あった。
さて、歩きつかれた我々は、地下鉄に乗ってホテルへ戻ることにした。地下鉄まで
10分ほどの道のり、最前から気になっていることが本格化してきた。それは、人々が
信号を守らないのである。赤でもどんどん渡る。スウェーデンの人々は恐ろしくせっかち
なのだ。地下鉄では、「次の電車はあと何分で到着します」という表示がでているし、
エスカレータは急ぐ人のために左側をあけている。どこかに似ている!!
そう、大阪。まさに、ストックホルムは大阪のような町だったのである。
私はこの場を借りて、ストックホルム−大阪友好都市宣言の提案をしたいと思う。
そして、ともかく出発しなければならない。
ストックホルムからリンシェーピンは、
約2時間の旅ということである。しかしながら、
その切符の買い方がわからないのだ。
Qナンバーというのを取れと書いてあるけれど、
そのQナンバーマシンがわからない。もとより、
英語が苦手なので、忙しそうにしている切符を
発行している人にも聞き難い。それでもと勇気
をふりしぼって尋ねたら、部屋の外にあると
いう。出てみると、いろいろな機械に混じって、
なるほどそれらしい機械が1台だけぽつんと
あった。マンガの案内があるわけでもなく、
なんとも不親切この上ない。
やっと切符を手に入れて、列車にのりこんだ。リンシェーピンまでの間、大西部長といろいろ
な話をする。いままで、一度も一緒に仕事をしたことが無かったので、今度の研修が初めて
ゆっくり話をする機会である。そして部長は大変根気よく、私の妙な日本論をはじめとする
話を聞いてくださった。私にとっては、時間の流れが早く感じられたので、とても助かったが
部長にとっては時間が長く感じられたかもしれない。
リンシェーピンの到着し、ホテルの位置を探しバスに乗る。さっぱりアナウンスの地名が聞き
とれないのだが、親切な運転手さんが「ここですよ」と教えてくれて、無事ホテルに到着した。
今日の長い日記のとおり、盛りだくさんな一日であった。
明日から、ついに研修がはじまる。
3月2日(月)
だいたい、無茶な話しである。
ホテルの送迎バスが、何時にでるかで議論になるような道中で、英語の講義を聞いて何の
理解があるというものか?事実、やはりというべきか、講義自身はさっぱりわからない。
しかしながら、実習の内容はAS/400という永年お世話になったコンピュータで開発
されたソフトの変更についてなので、なんとなく理解できる。ま、そちらが目的なのだから
良しとしようかと思っている。
今回の講義に参加しているのは、スウェーデン人が5人、フィンランド人1人、ドイツ人1人、
マレーシア人1人、そして日本人2人である。ちょっと冷たい感じのする女性の講師のもと、
この会社が開発したソフトと格闘している。なんせ、極めてセキュリティーにうるさい会社
なので、夕方5時を過ぎると社員用カード無しでは外に出ることもできなくなるといった
徹底の仕方。また、煙草は全館禁煙なので、吸いたいときは外でということになっている
から、この寒いところでにっちもさっちもいかなくなる事だってありえる。この煙草の一件は
日本で案内をもらったときから知っていたけれど、ちょっとしたジョークだと思っていた。
ともかく、1週間の研修生活がスタートしたわけである。
さて、ちょっと生活をした上での、スウェーデンについての雑感を書いてみようと思う。
まず、初めに感じたことは、スウェーデン人は真面目だということである。飯を食べている
ときも、仕事の話を一生懸命している。それから、祖国に誇りを持っていて、とても好感が
持てる。媚びたり謙遜したりするのではなく、自然の大切さや福祉の要点などがスラスラと
自分の言葉で出てくるように思う。まったく、見習うべきことは多い。
次に思ったこと。それは、飯が口にあうということだ。魚も食卓にならぶのだが、酢漬け
だったりしてとても美味い。それから、ビールがとても美味いのにはびっくりした。今後
スウェーデンビールというのは、はやるかもしれない。この国では、ビールは3種類の
等級に分かれていて、日本で売られているようなアルコール5%以上のビールを売るには
許可が必要だし、18歳未満は買えないが、一番低いアルコールのものは、誰でも飲める。
2番目のものは、誰でも売れるが18歳未満では飲めないという案配だ。味はソフトで、
飲みごこちがよい。いろいろ教えてくれているスウェーデン人の2人は、アルコールに
弱いそうで、あの高いコーラを飲んでいる。かといって、私のように太っているというわけ
では決してなく、女性も男性もスタイリッシュだ。この国ではダイエットなんというもの
は流行らないに違いない。
さあ、明日はどうなるか。もう、苦痛なんて余り無い。楽しみというものである。
3月3日(火)
わけのわからん研修も、2日目となると楽しくなってくる。
周りの様子も見えてきはじめるので、なかなか面白い。研修は、まず実習することの説明
から始まる。しかしながら、これは当然のようにわからない。ほんの少しの大意のみをとら
えて、実習へと移る。ここで感動するのは、日本では何かと異端視されるAS/400を
みながちゃんと使っているという事。もしかしたら、外国でも仕事にありつけるのではと
思って、とてもうれしくなる。ワールドワイドで売られている機械だと実感した。
一緒に研修を受けている仲間には、面白い人もいる。今日の分ではともかく書かない事に
するが、どうもプログラムの好きな人種というのは良く似ているようである。
さて、今晩はスウェーデンの家庭料理にご招待ということで、この研修にでている他の
組みの人々も含めた全員でおよばれにあずかる。
まず、びっくりしたのは、魚料理。わが第二の故郷ビクトリアでは、人々は魚を「くさい!」
(スティンキー)といって嫌う。しかし、ここスウェーデンでは、なんとサケのマリネが
登場した上に、数種類の魚料理がならんだ。これがまた、大変おいしい。たずねてみると、
イクラも食べるとの事。大阪人に似ていると書いたが、ますます親近感がつのる。
スウェーデンでは、乾杯の音頭をホストがとるまで食べ物を口にしてはいけないらしい。
これは、大西部長からの受け売りである。食事の取り方も、上の写真に一寸説明を加えれば、
手前から魚やハムといった冷たい料理がならんでいて、その先にグラタンのような料理や、
ハンバーグのような温かい料理が並ぶ。それらを食べる人は、「冷たいもの」「熱いもの」
という按配に、皿を分けてとらねばならない。また、食べるときは、目の前に1枚だけ
用意されている大きな皿に、料理を取ってきた皿を重ねて食べるので、同時にたべられるの
は、一皿だけである。これらを、何回かくり返し、そしてデザートで終わるそうだ。
これらは、上の写真にうつっているスウェーデン人のニーチャンが教えてくれた。
この夜は、おいしい食事と共に、スウェーデンの民謡みたいなのを教えてもらって歌ったり、
スウェーデンの悪い言葉を教えてもらったりして、とても楽しく過ごす事ができた。
ところで、上記のとおり、この夕食会の場には何人かのスウェーデン人もやってきている。
この人達は、以前も書いたように極真面目で、宴会の席でも「JAVAがどうのこうの」
とか「AS/400は良いの悪いの」と、仕事の話しを一生懸命している。こりゃ日本人
より上手だなと、正直のところ思った。スウェーデンおそるべし!と、言えよう。
3月5日(木)
明日で、研修は終わりである。
なんやかんや言って、ここまでたどり着いた。英語には苦労しつづけているが、得るべき
ものは得ていると思う。われながら良くやっているのではないか。
さて、ここで滞在しているリンシェーピンという街について書いてみよう。
絵を見ていただいてもわかるとおり、西洋の小さな街といったところである。これは5時過ぎの
光景。店が料理屋を除いてだいたい6時ごろには閉まってしまうので、この時間に繁華街のほう
に行けば、わりと大勢の人を見ることもできるが、ちょっと脇にそれるとこんな感じだ。
マクドナルドはいたるところにある。スウェーデンでの営業にはかなり力をいれているようで、
ストックホルムの市街には「m」のマークがあふれている。
そして、やっぱり西洋だなあという光景が以下の教会であろう。
夜の教会はとても荘厳である。照明と月明かりが混ざって、威厳のようなものを醸し出している。
私は学校でプロテスタントの教えを受けてきたので、カトリックについては若干ネガティブな
イメージを持っている。しかし、その歴史が残した建築物の美しさには、いつも驚かされる。
リンシェーピンには、心を落ち着かせてくれる要素がたくさん詰まっている。
さて、この日の夕食は、我々の泊まったホテル「エコクセン」での最後の食事だ。この研修は
夕食付きなので、各国からやってきた人々と食事をとる。さすがに4日も過ぎれば、みんな
少しずつ打ち解けてきて、楽しい夕食となった。これが最後というのが残念だ。
フィンランドからやってきた人(残念ながら、名前を忘れた)は、まるでラテン系の乗りで
我々を楽しませてくれた。彼の口癖は「Of course!!」である。この言葉は、英語では
ちょいとキツイ言葉だから、普段あんまり聞かない。でも、彼に話し掛けると、まず、
「of course!」から言葉が始まる。彼に、「アドミラル・トーゴー(東郷元帥)を
知っているか?」と尋ねたら、これは本当に「Of course!!」と返ってきて、彼ら
がいかにロシアを嫌っているかを話してくれた。東郷元帥がフィンランドでは大英雄である
ということは、何かで聞いて知っていたが、この国の人に聞いてみると感覚まで伝わってくる。
彼はまた、研修の中でも楽しませてくれた。彼のプログラムには、注釈がつかない。今回の
研修では、その注釈の付け方を厳しく習っていたのに、である。そして、彼はこうもいった。
「プログラムは動くことが大事だ!」
これは、私の前の上司の行動、口癖とそっくりであり、大西部長とともに彼のことを「Sさん」
(Sにはもちろん実在の名前が入ります)と呼んでいた。
あまり、内輪受けになりそうなことは書かないことにしよう。
寡黙なドイツ人Edlerさんと、ちゃんと喋ったのもこの日が最初であった。私はドイツ車を
信仰?しているので、彼にそのことを伝えると実に喜んでくれて、それからいろいろ話し掛けて
くれるようになった。もっと早くそうしておけばよかった。彼はいつも落ち着いていて、信頼の
おけそうな人である。笑うとジャック・ニクラウスに似ているので、そう言うと、「彼の方が
儲けるのがうまいよ」と、いってニヤリとした。なんとも渋い人だった。
似ているといえば、別のコースにきていた別のフィンランド人は、F1ドライバー、
ミカ・ハッキネンにそっくりであった。「Sさん」にそのことを伝えると、やはり
「Of Course!」と2回いってから、「そうだな」と笑っていた。Sさんは、食事の後で
「こちらがミカ・ハッキネンさんです」と、彼を紹介してくれた。
また、ハッキネンといえば、もう一人F1レーサーがいた。いつも、親切にしてくれるスウェーデン
人の二人組みのうちの一人、ペトロさんは、デーモン・ヒルに似ていた。彼にもそれを言うと、
「そんな良いいわれ方をしたのは初めてだ!」といって喜んだ。(下が、その二人です。)
ちょっと不思議に思うのは、外人さんといえば誰を見ても同じように見える我々でも、「似ている」
というセンスは共通なのかということだ。実際ミカ・ハッキネンなんかは、皆そう思っていた
みたいだし、デーモン・ヒルには、もう一人のスウェーデン人もウケていた。
「誰かに似てますね」
と、いうようなことは、気をつけて言わないと恐いものだ。今回は、すべて良い意味での有名人
だったから言ってみた。結果的に場が盛り上がって楽しく過ごせたが、デーモン・ヒルからは、
「お前、何処行ってもそんな事いってんのか?」と、聞かれた。「はんぷてぃー・だんぷてぃーニ、
ニテイルナンテハ、ゼッタイイワナイヨ」と、言ったら、うなずいていた。事実、マレーシアから
やってきたラムさん(決して角が生えているわけでもなく、また男である)は、香港映画の喜劇
俳優みたいだったが、「マイケル・ホイみたいですね」とは、言わなかった。
そりゃ、あたりまえやね!
3月7日(土)
結局、旅行記というものは、その場で書いているのでは無いので、後づけということになる。
松尾芭蕉の「奥の細道」について、同行した弟子の曽良の日記と照らしあわせたら、行っていない
ところに行っているとか、忍者のように急がないと間に合わない旅をしている等といった見方から
「芭蕉は忍者である」と書く本もある。しかしながら、今たった1週間の旅行記を書くに当たって、
すでに記憶は薄れ、はっきり言ってどこにいったかも忘れつつある現在、芭蕉はいつ「奥の細道」を
綴ったのか知らないが、史実と違うなどと言ったらかわいそうな気がしてくる。ここに告白するが、
私のアメリカ旅行記も、ほとんどを旅の中で書いているが、2,3日さぼって一遍にかくといった
ことも何回かやっている。もしかしたら、ちょっとした記憶違いだってあるいかもしれないのだ。
今回の研修旅行に戻るとしよう。
まず、はじめに苦労したこと。ストックホルムの駅で、リンシェーピン行きの切符を買おうとした。
何やら銀行の順番札みたいなもので管理されているのだが、その札の取り方がわからない。何処に
あるのか、さっぱりわからないのだ。大西部長と二人、若干焦りつつ探し回ったら、なんと売り場の
外に小さくチョコっと置いてあった。二人して激怒。その後、私らと同じく、わからなかった人に
場所を教えてあげるといった事件も起こった。日本なら、もっと絵解きで親切においてあるやろに。
さて、そのシステムをQナンバーという。「Q」とは、「キューイング(待ち行列)」の「キュー」
である。コンピュータの用語として知ってはいても、こういう所で現れるとわからんものだ。
そうして、列車を探した。これがまたなかなかわからない。何番線からでるものか??何時の電車か
だけは分かるので、それをもとに探す。ストックホルム駅では、電車の停車位置がABCDとアルファ
ベットで区切られている。それと、列車の編成を結び付ける看板がプラットホームにあって、それを
見てから移動するというわけだ。この日、電車は二人の時計の示す出発時刻より、5分早く出発した。
「大阪みたいにせっかちやゆうても、これはひどいな!!」
大西部長が叫んだ。私もそう思ったが、これはなんぼなんでもおかしい。改めて、次の駅の時計と
見比べてみる。やはり、二人の時計とも5分違っていた!
この原因は、はっきりわかっている。
二人とも、コペンハーゲンの空港に着いたとき、飛行機の機内テレビの表示している現地時刻で時計を
合わせたのである。と、いうことは、飛行機の時間が間違っていたのだ!これも、恐い話である。
そりゃまさか、計器の時計が違っているとは思えないが...
ともかく、スウェーデン人せっかち過ぎる説は、大阪人程度に収まったのである。
時間といえば、リンシェーピンのホテルで私の部屋にあった時計が、1時間狂っていたので、私は
時差があるのかと思ってフロントに聞きに行ったという事もあった。実際は時差などない。
ストックホルムというところは、ノーベル賞で有名だ。上の写真の塔は、その受賞式が行われる
市庁舎のものであり、となりは市庁舎したの公園からである。この市庁舎、公開されているらしいが、
入り口に「ガイドと一緒でないと入れません」と数か国語で書いてあった。日本語はなかった。
反対に初日、北欧文化博物館というところに行った時は、入場料を払う時に「何語の案内が要ります?」
と聞かれて、「英語」と答えた大西部長のあとで冗談半分に「僕は日本語」といったらこれが見事に
あった。なんでも言ってみるものである。
最終回の今回は、エピソード集という事にしているから、まだまだ色々書いてみるとする。
わたしはVisaカードを愛用している。それもシティ・バンクのものである。これは、裏に自分の
写真が入っていたりするので、これまで非常に重宝してきた。アメリカでも、この写真は受けが良く
「これなら間違いようがないわね」なんていわれることもしばしばだった。また、漢字でサインして
いるので、これも好奇の的となり、「自分じゃ絶対に書けない」とか「奇麗だ!」とか言われる。
日本でわたしの字を誉めてくれる人はまずいないので、なんとも気分の良いものだ。
さて、スウェーデンでは、面白い事をいわれた。サインする時「サインの下に、国民番号を書いて
ください」である。「ニホンジンハ、ソンナバンゴウナイデチュ」と言ったら許してくれた。
ある店では、ネガティブチェックの為か、奥に引っ込んでしばらくかかる事もあった。また、
Amexはアメリカ系だからか使えない店がかなりあり、Amex愛用の大西部長は苦労されて
いた。
ところが、リンシェーピンの銀行で「VISA」のマークがあるにもかかわらず、キャッシングが
できなかった。銀行が開いている時間には行く事が出来なかったので、原因はわからないが、
町のお菓子屋とか、チーズ屋さんではカードが使えないので、二人して困った。原因がわからない
理由の一つに、CD機の表示がスウェーデン語だけというのがある。こりゃ、さっぱりわからない。
スウェーデン最後の夜、大西部長に夕飯をおごっていただいた。ふらりと歩き出した夜の街。
どこに何を食べさせてくれる店があるかも知らず、ただうろついた。どこの街とも同じように若い
人たちであふれている。いくつかの店の外に掛けてあるメニューを見ながら歩く。サンドイッチマンが
持っている札に、レストランの今日のお勧めが書いてある。その店に行ってみる事にした。
店に入ると、そこはほとんど軽食屋と言えた。ラテン系の顔立ちのウエイターさんに、何が旨いの
と聞いたら、「鮭」という。ビールとその鮭を頼む。前にも紹介したとおり、この国のビールは
旨い。それを飲みながら、今度の研修の話などしてまっていると、鮭が運ばれてきた。これが旨い!!
日本の塩鮭を2枚合わせたような鮭には、骨がまったく無く食べやすい。ソースはマヨネーズだと
思った。元来、なんでも旨いと思う性分で、「食通ほどかわいそうな人はいない」と、いつも言って
いるわたしでも、これは特別旨いと思った。大西部長も大満足であった。
思えばこの国、食べるものがとても口に合った。実を言うと出発前、この研修はいやだと言い張って
いた。本当にとてもいやだったのだ。それは、仕事上の事が大きな理由なのだが、もしかすると
必要以上に嫌がっていたとも思う。しかし、嫌がった事を最後はとても後悔した。こんな素晴らしい
経験の機会を与えてもらった事に、感謝しなければいけなかったのだ。
あれだけ嫌がった研修にでかけていながら、たった1週間なのに丸まると太って帰国することに
なった。わたしはいつものように、天の「何者か」に「すみませんでした」と心底あやまった。
スウェーデンの旅はこんな風に終わった。コペンハーゲン空港が雪と霧で発着制限常態となり、もう
少しでコペンハーゲンの夜も楽しめるところだったが、無事?飛び立つ事ができ、ほぼ予定通りに
成田に帰ってきた。ところで、ストックホルム・アーランダー空港から日本人の団体にであった。
彼らの会話に聞き耳を立てていると、なにかのツアーらしく、添乗員の女性もついている。年配の
一人は医者らしかった。そこに、コペンハーゲン空港の状態に関するアナウンスが鳴った。しかし、
彼らは土産物の買い忘れチェックに夢中らしく、何も聞いていない。もしかしたら、乗ろうとして
いる飛行機が飛ばないかもしれないかも知れないのにその調子だ。そこに、添乗員さんが飛んできて、
状況を伝えた。「ふーん、そんなこと言ってたの??」てなことを「医者」氏が言っていた。
とても釈然としない気持ちが残った。
やっぱり人ひとり旅行しているのだから、どんな時でも対応できるように気を配っていなければ
ならないのではないか。添乗員さんに頼り切るのも良いが、自分が出来る範囲の責任は、自分で
なんとかするくらいのことがなぜ出来ないのだろうか?案の定この団体は、コペンハーゲンの空港に
着いた時、到着ピットが混んでいたのか、滑走路からの途中で停止した飛行機の上で、「待機します
ので、シートベルトはそのままに」というアナウンスを聞いたか聞かずか、一人は通路を走って
トイレに行き、もう一人は立ちあがって後ろの仲間と喋り始めて、乗務員に注意されていた。
どこでもこんなことをやっているとすれば、そりゃ日本人が馬鹿にされるのもわかる。
さて、最後は最近の憂国がもろに出てしまったけれど、ともかく自分としては良い勉強になった。
その勉強の中には、もちろん同行した大西部長とのいろいろな話も含まれている。わたしの妙な
意見をちゃんと聞いてくださったばかりか、貴重な助言をいろいろくださった。今後、かならず
役立てたいと思っている。
成田からの車窓から見る風景は、つい2日前の異国の光景にくらべてあまりにも違うものだった。
それを繁栄ととるかどうかは、人の自由である。
わたしは残念ながら、今、出てきた国のほうに魅力を感じていた。
堺屋太一がいっている「ジャパン・パッシング(日本通過)の兆しあり。」当の日本人が逃げたい
と思うような国に、確かに人が集まるはずもない。また、猿真似国とよばれても良いから、他の
国の良いところは吸収して、また、世界に誇れる国になればと思っている。
そのためには、小さなことからこつこつとやっていかねばならない。
なにやらクソ真面目な結末となってしまったが、今の素直な気持ちで締めさせていただいた。
了
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