Last update on Aug.26th,2001



オランダ&スウェーデン紀行



2001年8月 9日
2001年8月10日
ビデオ盗難で更新不能
2001年8月11日
2001年8月12日
2001年8月16日
2001年8月19日
2001年8月22日
2001年8月24日



(序に代えて)

 また、北欧にくることになった。

 今回は、こういった紀行文を書くのには、かなりの意味で不適当な旅といえる。
現在お世話になっている、インテンシア・ジャパンのプロジェクトで訪れているからで、
浮ついた気分にはほど遠いはずだからだ。
しかし、数年くらい歳をとったからといって、好奇心など自分の性分を変えられる
ものではなく、性懲りもなくこうしてPCに向かわせていただいている。

実をいえば、この旅には終わりがちゃんと計画されていない。
つまり、プロジェクトの進捗次第できまるという「責任重大」なお話なのである。
ともかく、帰国の飛行機は8月23日に設定されているから、それまではヨーロッパ
にいることになるので、おりを見つけて北欧の様子を記していきたいと思う。

この出張で主に滞在するところは、スウェーデンのリンショーピンである。
私の紀行文シリーズをごらんになったことがある方には、スウェーデン紀行という旅で
先輩と研修を受けていた場所であるからおなじみかもしれない。
またまたスウェーデンの田舎町に来るということは、前の研修と何か関連があるのかと
お思いかもしれないが、まさにそのとおりで、そのときの研修でえたものによって今の
仕事をさせていただいているのである。とても思い出深い地と言える。

リンショーピンに行く際のトランジットで訪れているのが、オランダである。
仕事を一緒にする現地の方のスケジュールと、お盆の時期の飛行機の関係で、数日早く
日本を発つことになった事をしった会社の方が、「それならトランジットのオランダで、
しばらく過ごしてきたら?」と言っていただいたことから、この日記が始まったと言って
良い。これもまた何かの縁。感謝の気持ちで一杯である。

さて、そういった按配なので、どんな展開になるかは想像もつかないが、読む方の何かの
参考になるような話を書くことができれば幸いだと思う。

 

8月9日(木)

 前日にメールマガジンが送ってきた占いには、「あなたの9日の総合運は99%!総ての 幸運はあなたのものでしょう!」と書いてあったので、この旅はすばらしいものになると 確信していた。  飛行機で寝られるように徹夜で準備をするなどして、万全の体制で駅に出かけてみると、 ちょうど電車は行ってしまったあと。占いに対する信頼度が激減する。 ローカル線なので、20分ほど眠たい目をこすりながら待って、電車に乗り込んだ。 ついに長旅への出発である。 成田空港では、今回のプロジェクトではたらく同僚の地平さんが待っていてくれた。 いきなりの遅刻。まったく先が思いやられる。 飛行機は、KLMの862便アムステルダム行き。11時間30分の長距離飛行である。 成田は出国カードがなくなっており、簡単に出国手続きが終わった。 と、お金をおろしわすれたことに気が付く。今でもシティーバンクを利用しているから、 外国でのお金の心配はあまりないが、またしても失敗。隠し持ったつもりの5万円が、 当面の活動資金となる。あの占いのせいにはしないことにしよう。 11時間以上の飛行機の様子はあまり書かない。飯は思ったよりうまかったが、地平さん の口にはあわなかったようだ。こういうとき舌の感覚に疎い人間は得である。 幸いエコノミー症候群にもかからず、もくろみどおりほとんどを寝てすごしたので、 あっという間に時間は過ぎ、飛行機はアムステルダムに到着した。現地時間でだいたい午後 3時である。
イミグレーションでは、何も聞かれずただビザの欄にスタンプ一個。あっけなく、オランダ に入った。2万円ほど両替をして、おもちゃのような紙幣を含むギルダーが財布に収まる。 泊まるのは、アムステルダム駅前の高級ホテル、クラウンプラザ・アムステルダム シティーセンターなので、これからアムステルダム中央駅にむかうことにする。 ところが、これがままならない。 空港と駅はおなじ建物にあるのだが、なにやら怪しげなチケット発売機があって、これが 紙幣を受け付けない。両替で、チップなど用にコインを頼んでおいたが、中央駅までの 6.5ギルダーには足らないのである。 さて、どこで両替するかとうろうろする。この際鉄道はやめてバスにするかと、バス乗り場 にも行って見るが、これまたよくわからない。さて、どうするか? 地平さんがバスの運転手を捕まえて、聞いている。やはり、鉄道を使うのが簡単だそうだ。 また、荷を抱えてチケット売り場へもどり、今度は両替を探す。ここでも地平さんが大活躍。 ふと駅の関係者らしいにいちゃんを捕まえて、両替機の場所を教えてもらった。 この両替機は一階下にあって、不便この上ない。 ともかく、両替をしてチケット販売機に舞い戻どろうとしたら... 地平さんが、人間のいるチケット売り場を見つけた。それもすぐそばに... ともかく、チケット販売機を使って2つあるランク(と、思われる)のうち2とかいてある 方を選択し、アムステルダム中央駅へのチケットを2枚ゲットした。
今度は、どの電車に乗るかわからないので、さっき見つけた人のいるチケット売り場に行く。 さすがにまたしても地平さんに活躍してもらうのは忍びなく、例のごとく「ドノデンシャニ ノレバ、アムステルダムチュウオウエキニイケマチュカ?」と、何年ぶりかの英語を発すれ ば、「3番線のにのれば、どれでも行きますよ」と教えてくれた。 オランダの鉄道に乗るとき不思議に思うのは、検札がないことである。アムステルダム中央 までの20分ほどの間にも一度もこなかった。これでは、無賃乗車自由自在ではないか? なんというモラルのある国民性かと思いつつ、2階建ての電車で目的地へと向かう。 先ほどでてきた2つあるランクは、電車に大書してある「1」「2」という数字と対応して いるのだろうが、これまたたった20分の乗車であることもあって、いまだなぞのままだ。 車両を見る限りでは、あまり代わり映えはしないような気がした。 電車のなかで、チャクメロが鳴り響き、どこの国も同じやなと地平さんと笑っていると、 アムステルダム中央駅に到着のアナウンスがあった。 ともかく、ホテルにはたどりつけそうである。
アムステルダム中央駅を降りると、さっきは晴れていたのに雨が降りはじめていた。 なにやら天気になったり雨になったりで、おもわずビクトリアに住み始めたころの感想に 近い感想を持つ。西洋の天気というものは、こうもはっきりしないものなのだろうか。 めずらしく準備良く持っていた傘をさし、駅前と記されているホテルへとむかう。 クラウンプラザは、五つ星ホテルである。出張の詳細な計画が直前まで決まらなかった こともあって、まったく身分不相応なホテルに泊まらせていただくことになった。 到着前は、「チェックインさせてくれるのだろうか?」などと、身分不相応にふさわしい 心配をしていたが、なんなくチェックインを完了。ただ、朝食がついていないという ことなので、値段を聞いたら40なんぼかギルダー(約2000円強)ということだった ので、最後の日くらいは食べようかいなということにして、とりあえずやめにする。 部屋のカードが無いと、エレベータすら乗れないというさすが5つ星の気分を味わい ながら部屋にいってみると、これは普通の部屋だった。 五つ星恐るるに足らずといったところだろうか。
さて、アムステルダムには3泊する予定だが、とりあえず早めはやめのスケジュールをこなす ことにして、もう5時をまわった街を散策しはじめた。雨は小止みから、ほとんど落ちて こなくなった。 とりあえず向かったのは、ガイドによると少々遅くても開いているらしい「アンネ・フランク の家」である。もちろん、あの「アンネの日記」で有名な隠れ家が、現在は記念館のように 展示されているというものだ。
アンネの家は、左の写真の真中にそびえる「西教会」の近くにある。西教会の前には、 アンネ・フランクの像があり、多くの観光客が集まって写真をとる。地平さんは体から 親切光線を発しているのか、多くの観光客からシャッターを押してくれと頼まれていて、 右の写真の4人連れ一行などは、なんと皆分のカメラを手渡していたようである。 地平さんは快く撮ってあげていた。
アンネの家は、かなりの行列になっていて、入るのにおそらく15分ほどは並んでいた だろうか。入場料は12.5ギルダ−。写真撮影の禁止を通告されてから入場すると、 日記に沿った展示や、ビデオが上映されているが、なんといっても隠れ家そのものが、 有名な「本棚の裏の隠し入り口」から入る忍者屋敷のようになっており見ごたえがある。 沖縄といい、この家といい、戦争の爪あとから学ぶことは多い。 特に、主人公が不遇な境遇のなかで夢をしるし続けた少女であり、その悲惨な最期までが 事実であることから、この家では戦争や人間の愚かさを身にしみて体験できる。 ただユダヤ人であるということで、虐殺にいたる差別を行ったのも人間。ひっそりと暴虐 の嵐が去るのを待っていた家族のことを、密告したのも捕らえにきたのも人間。 そして、もちろんアンネも人間なのである。  なぜ、このようなことになるのか?  わたしの知る限りヒトラーによるユダヤ人排撃のきっかけは、失業にみちたドイツで、 ユダヤ人の生活レベルが非常に良かったことに対するやっかみだったという。もともと、 シェークスピアの「ベニスの商人」にも描かれるとおり、ユダヤ人には金貸しという職業 があった。これは、ラビ・M・トケイヤーなどによると、ユダヤ教の教えには金に関して ネガティブなものがないことから、古くからお金にまつわる職業につく機会が多かった からということだ。また、ユダヤ人の教育好きは有名で、小さい頃からタルムードなど による多角的思考法が教えられて、実社会でも通用する教育がなされてきたらしい。 タルムードは、ユダヤの賢人といわれる人が記しつづけている、一種の問答集であり、 前出のラビ(ユダヤ教の牧師のような存在)によれば、全巻を貸し出そうとすれば、 トラック一杯ほどの量となるような文書ということだ。  ユダヤ人はこのような社会的特徴から、日本の武士と商人の関係のように、支配者と しては登場しないが、実質的には支配階級をおさえてしまうといった状況になることが 多かった。だから、その成り立ちを知らぬ人々からは、疎ましがられ易い存在でもあった のである。また、ユダヤ人が排撃されやすかったもうひとつの背景に、いろいろな戒律を 定めた教義を守って生きているということがある。これは、他宗の人からみればまさに 異端であり、ともすれば人にあらずという気持ちをもっていたようだ。今でも、自分と 異なった生活様式をもっている人には、ちょっと違う人という印象をもつし、簡単に 悪者にできるし、してしまい易いものではないか。 このような気持ちを、狂信的に高めたのがヒトラーであり、その時代だった。 なにもヒトラーやナチだけが、ユダヤ人を排撃したわけではない。たとえば、イスラエル 建国のとき、多くのユダヤ人がエルサレムを目指したが、イギリスの当時の外務大臣など は、過剰とも見える出入国干渉をおこなって、何人ものユダヤ人を軍隊をもって殺害し、 隔離し、建国を妨害したという事実がある。 もちろんこれは、ヒトラーより何年もあとのことなのである。 今でも、日本ではユダヤ人排撃的な本が良くでている。ユダヤ人が世界を侵略する旨の 本は、いつも新刊コーナーにならんでいる。確かに現在でも、アメリカの成功者といわ れる人々に、ユダヤ人が占める割合はきわめて高いという。この状況に「不況」という ファクターが加われば、いつヒトラーが再来してもおかしくないのではないか?
 少なくとも、このアンネの家を見たことのある人や、アンネの日記を読んだひとは、 隣人がちょっと違った生活様式をもっているからといって、あるいは、商売上手で成功 しているからといって、うらやんだり、やっかんだりしてはいけない。 それは、まさにアンネを苦しめ、殺害したナチやヒトラーなどと同じ発想の第一歩に ほかならないからである。 左の写真は、アンネの家の正規の入り口(歴史館としての入り口ではない)であり、 右はその入り口付近からみた運河である。アンネが見ていたのと、おそらく同じような 風景なのだろう。 とても荘厳な気分になって、この地をあとにした。 さて、ホテルまで引き返す途中で、サンドイッチやフィッシュアンドチップスを売って いる店を見つけたので、食べることにした。香港の時のように、もし口にあわなければ、 マクドナルドに飛んでいこうとしていたが、幸いにしてとてもおいしかった。 ただ、15ギルダー(800円くらいでしょうか)した、フィッシュアンドチップスは とてもポテトフライの量が多く、おそらくこれからポテトを多く食べることを思えば、 好き好んで頼むこともなかったなと思ったことは付け加えておきたい。 今日、散策した上でのアムステルダムの印象を書いておこう。 1.意外と街が汚い ゴミがあちこちに落ちている。狭い通路が多いので特にめだつ。 2.なんせ狭い チンチン電車が走り回っている。よく、あんな状況で車が運転できるなと、なんども 感心してしまった。その上になお... 3.自転車が道をよけない 自転車用の区画が、道の少なくない部分を割いているので、つい自転車区画を歩いて しまうが、そこにやってきた自転車は、ほんとうに危ない。一切よけてくれたりは しないので、ご注意を!! さて、明日は美術館めぐりの予定である。

8月10日(金)

 オランダの印象は更に悪くなった。 朝食が40ギルダーの五つ星ホテルに泊まっているので、朝食は外で取ることにした。 予定では8時30分に外へとでかけることにしていたが、いまこのページを書いている コンピュータが故障し、悪戦苦闘しているとその時間になってしまった。地平さんには 悪いが、ちょっと待ってもらって苦闘を続けることさらに1時間でなんとか復旧し、 外にでることができた。なんとわがままな話だとおこられそうだが、実は故障する直前 までこのページを書いていて、アップしておきたいという気持ちと、仕事の材料も持っ てきているので、どうしても修理しておきたかったのである。 またしても、雨が降ったりやんだりしている中を、王宮などのあるダム広場の方向へ 歩いてゆく。今日は、ゴッホやレンブラントで有名なオランダの美術館めぐりをする つもりである。 ダム広場をちょっといったところにあるサンドイッチの店が、サブウェイのように 自由に具を選べるようになっていたので、朝食はそこですることにした。 店には男の人がひとりでいて、彼がサンドイッチを作ってくれる。ハムだの卵だのと 入れてもらって、コーヒーとともに席につく。地平さんもだいたい同じものに、紅茶だ。 昨日の店での値段と比較して、二人分で20ギルダーより多いか少ないかを議論して いたが、いざ払いにいっておどろいた! 「48ギルダー(2500円くらい)です」 おいおい、何やその値段!と、思ったが、聞き違いかもとおもったり、元来のシャイだ ったりで、50ギルダー札をわたしたが、やはり帰ってきたのはチップに最適な1ギル ダー貨が2枚のみ。完璧に動揺し、おたおたしたわたしは、おもわず「アリガト」と、 いつものように挨拶して地平さんのもとへ議論の最悪の結論を伝えにいった。 店を出てから、これまたいつものようにムラムラと腹が立ってきたが、とってかえして なにができるわけでもなく、「さっきたのんだあのハムが超高級品やったんやで!」 「きっと、日本軍に痛めつけられた退役軍人に違いない。いや、あの男の親父がそう に違いない」などと言って自分を慰めることにする。 これならば、おそらくバイキング料理をたっぷり楽しめたホテルの朝食にしておいた ほうが良かった、とはいっても、二人で80ギルダーを超える代物ではあるが。 今日の最初の目的地である「国立美術館」に向かって歩くうち、すこしずつ気分は 晴れていったが、少なくともオランダに対する私の意識は確実に悪くなった。
気分とともに天気も少しずつよくなって、傘はまったくいらなくなった。運河によって 構成されているこの街は、いたるところで美しい光景にぶつかる。 おもわず立ち止まって、カメラ代わりに使っているデジタルビデオをまわす。 やがて、広大なたてものが見えてくると、それがアムステルダム国立美術館である。 15ギルダーの入場料を払い、今度は小さなバッグ以外は総てクロークにあずけさせ られるので、わたしの赤いリュックとおさらばしてから、展示室へむかう。 感想を一言で言えば、「うーーん...」である。 一言で言ってないといわれそうだが、ちょっとニュアンスでおわかりいただきたい。 たしかに、ゴッホもレンブラントもあったし、王冠やきれいなグラスもあった。 しかし、何かが違うのだ。もちろん、朝の事件を引きずっているわけではない。 この手の美術館にいけば、「ほう!こりゃすごい!!」と思って、売店で複製や写真を 買って帰ろうとするものがひとつはあるものだが、わたしも地平さんもそれがまるで なかった。ただ、オランダの人に失礼とおもいつつ書いておきたい発見?があった。 それは、オランダの美術品にでてくる人物の顔は、ゴッホやレンブラントなどの例外 を除いて、ほとんどが不細工、あるいは不自然で、とても共感をもてないということだ。 また、ガチョウが死んでいる絵を書いたり、孔雀が吊られている絵があったりする。 あんな絵は見るだけでおぞましく、気分が悪くなるものだとおもうが、国立美術館に 飾ってあるところをみれば、オランダ人の感覚にはあうのだろうか?? 美術館の中には、東洋からきた展示物を集めた部分がある。わたしは、この見学ほど 自分が東洋人であることを意識したことはない。なぜなら、不細工な顔や、がちょうの 死骸の類。きれいなものでもやたらに油っぽいイメージの作品群を見せられ続けた後に、 仏像や、質素な壷を見たときの安らぎはたとえようもなかった。  心のそこから、「やすらぐなぁ」とつぶやいてしまったのである。
さて、ちょっと朝の恨みもはいった国立美術館(写真左)を出て、ゴッホ美術館(同右) に向かう。わずか、数分の道のりだが、広大な美術館に疲れてしまったわれわれは、 途中でベンチに座り込んでしばしの休憩を必要とした。 ゴッホ美術館では、日本語の解説機材が存在していたので、15.5ギルダーに地平 さんの分だけに8.5ギルダーを追加して1台借りてみる事にする。解説番号を押し、 電話のように耳にあてれば解説が聞ける仕組みである。 こちらもクロークに荷物を預けたあと展示室へと向かった。こちらは掛け値なしに すばらしかったと思う。ゴッホが名の知れた芸術家と知っているから良いと思うのか、 ほんとうにこころから良いと思うのかはさだかではない。しかし、若いころからの 作品にしても、有名な黄色い絵たちにしても、見ていれば、なにかとてもよい気分に させてもらえるのである。不思議なものだ。 ゴッホ以外の展示も少なからずあるが、いずれも気分がわるくなるようなものは無く、 とてもよい気分で美術館を後にする。 目の前にある私設の土産物屋で、ゴッホの絵のTシャツとそのシャツと同じ柄の ネクタイを手にいれた。土産物屋の前では、屋台のようなものが出ていて、なにやら 魚のマリネのようなものを売っている。パンにはさんで、2つで10ギルダーちょっと。 やっぱり朝のはぼったくられたと、またしても思い出してしまう。 しかし、この魚はとても美味かった。今はこのサンドイッチを楽しむことにしよう。
これらの美術館がならんでいる広場の端に、クラシックファンには良く知られている アムステルダム・コンセルトヘボウがある。現在はリッカルド・シャイーが常任を 務めるコンセルトヘボウ管弦楽団は、世界屈指のオーケストラだ。早速、今日明日の スケジュールを確認しにいったが、残念なことに今週はオーケストラの演目は無い。 もっと残念におもったのは、16日に来ていたらわたしにとって最高のプログラムだ たということである。ラヴェルのピアノ協奏曲やドビュッシーの作品などフランス物 をやる予定のようだ。チケットが手に入るかどうかわからないにしろ、残念だった。
美術館一帯ともいうべき地域を離れ、アンティーク通りを散策し、花市をひやかし、 レース編みの店を見学?、有名だという跳ね橋を遠くに眺め、レンブラントの家に差し 掛かったあたりで雨がまた降ってきた。もうかなり疲れていたので、レンブラントは 見ないことにして、カフェーでひと休み。 ここでわたしは、アップルパイを見つけたので食べる。ホイップクリームが載っていて とても美味。値段を聞いて、また朝を思い出す。パイ、カプチーノ、カフェオレが 全部で20ギルダーもしない。そろそろしつこいので、この話はやめよう!  カフェーをでると、ちょっとした選択が待っていた。飾り窓地帯が近いのだ。 地平さんは、家族の人から近寄るなと言われてきたらしい。しかし、興味はあるようだ。 もちろんわたしは、すくなからず興味があるが、女性と行くのも変な話だとおもって いた。結局、行かない道を選択することになった。また来る(ことがあるやろか?)と しよう。飾り窓とは、有名な売春地帯のことで、窓の中で女性が踊るなどして客をひく のでこの名があるらしい。 飾り窓をやりすごすと、もうアムステルダム中央駅が見えてきた。(写真右) この駅は、東京駅のモデルとなったらしい。なるほど、そういわれてみればそうかも しれない。 ホテルにたどりつくと、本当に疲れきってしまった。 夕食は近くのファーストフードで、またしてもポテトフライとサンドイッチを食べ、 この日記を書いている。 今日は、楽しかった!また、あしたも、面白い日であるよう祈りつつ、寝ることにしよう。

ビデオ盗難の報告

(11日分として書いたものを改題) 以前に、「紀行文というものは、決してその日に書いている物ではない」と書いた事が ある。この文章は実は12日の夜に書いている。 昨日は、300〜400kmもレンタカーで走り回ったので、そりゃつかれたから、 書いていないのであるが、事実を明かす必要はない。 では、なぜ書いたのか? なんと、今泊まっているスウェーデンのリンシェーピンという街に、わたしはビデオ カメラを持ってくることができなかった。つまり、盗まれてしまったのである。 11日の行動は、朝からレンタカーを借りて、世界最大の港ロッテルダムや、ベルギー のアントワープにでかけた。もちろん、画像は満載の状態であった。 レンタカーを借りて、いきなりレンタカー屋の目の前でエンセキを突破して小さくない 音響を発してスタートした話や、初めて走るヨーロッパの道の話、アムステルダムの道は 世界最悪ではないかという、またしてもオランダ批判の話など書きたいことは一杯あった。 しかし、このページを文字だけでつづるのはとてもしのびないのだ。 風車や、国境事情(実は何も無い)、ノートルダム大聖堂... あぁ、それらを記録したテープは、永遠のかなたに去ってしまった。 ビデオカメラはスられたのである。 今日、あまり良い思いでがなかったオランダを離れて、ストックホルムにやってきた。 ノーベル賞で有名な市議会を今回はガイドツアーに参加して堪能し、象徴ともいうべき 高い塔のテッペンにもビデオを持っていった。 リンシェーピン行きの電車を撮影しようと、ごそごそやっているのをスリはきっと見て いたのだろう。乗り込むとき、ビデオカメラを入れたバッグを背負い、重たいメインの 荷物を所定の場所に置いてから席を探し、バッグをおろしてみるとチャックが開いてい て、ビデオカメラだけがなくなっていた。 警察にいって事情を説明し、証明書を書いてもらった。警察へ向かう道々の空は、いつ かイエローナイフで見たようなとても美しい夕焼けで、ビデオが無いことが思い出され 陰鬱になる。移転によって地図からなくなった関係で、案内も満足にないままなんとか たどりついた警察では、上記の仕事をしていただいた後、なんとホテルまでパトカーで 送ってくださった。 パトカーの中で、「スウェーデンの印象を悪くされたでしょうね」と言われたので、 「ソンナコトハナイデチュ。キット、ベツノクニノヒトガヤッタアル!」と、いって おいた。事実、わたしと地平さんが記憶している限り、あのタイミングでスルことが できた奴は、北欧風の大きな男ではなく、短い毛の逆立った小さい男だった。 二人とも、オランダに非常に悪い印象をもってから、スウェーデンにやってきた事も あって、「あの男はオランダ人に違いない」といういわれもない冗談まででるしまつ。 たしかに、オランダの人は北欧人に比べて、かなり小さいのである。 なにもそんなことまでオランダ批判をする必要もないが、心がすさんでくるとこの とおりというわけだ。 さて、明日(13日)からは仕事である。 ビデオがなくなったのは、ちゃんと仕事せいよというまじないだろうと思う。 最後に、あのビデオカメラが、今後だれか良い人の手に渡り、使命を全うすることを 祈りつつ、この報告を終えたい。 アントワープのお話などはまた後日、仕事の合間か帰国後ということにさせていただく。

8月11日(土)

前日の盗難ショックから立ち直ったので、忘れないうちに車旅のエッセンスなどを 書いておこうと思う。もう2日も前だったのかと、いつもながら、遊びをするときの時間の 速さは信じられないものがある。 11日の朝、さすがの五つ星ホテルでレンタカーを借りた。ホテルで借りたのだから、 車が迎えにくるかと思っていたが、さすがにそこは我々をあまり歓迎していないらしい 国オランダだけあって、タクシーでレンタカー屋までいってくれといわれる。なにやら、 領収書をみせればその分引いとくみたいな事を言っていたが、タクシー代を見るとレンタカー 代の10分の1くらいもあったから、本当かどうか疑わしい。車は、レンタカー屋が閉店後 に返しに行ったので、支払いはカードで向こうまかせということになっているからである。 レンタカー屋はハーツを使ったので、まさか変なことはしないとおもうが、何しろ借りたの のはオランダである。もう前科一犯だけに信用していない。もし、変な請求がきたら、 もちろん伝票番号は控えてあるので、日本のハーツに抗議することにしよう。 (もう完全にぼったくられている気分になっている。ハーツにはなんの恨みもないので、  お間違えなきよう...ところで、何を間違うというのだろうか...) (後記:このHPをハーツ日本の方が見たかどうかわからないが、帰国した24日には  既に請求書が届いており、税金以外大体200ギルダーの請求がきていた。  200ギルダーは、当初ホテルで言われた額なので、きちっとした請求を頂いたわけだ。  他にはガソリン代らしい項目が8ちょっと。決してぼったくられても、破損を請求  されてもいなかったが、しかし、タクシー代はやっぱり引かれていなかった。  五つ星ホテルの言っていた事は、なんだったのだろうか??  ちゃんと英語を勉強しなさいという神様のおたっしか??) ハーツの周りは、工事中で車の出入りが難しい。しかも、前をとおっている道は真中に チンチン電車がとおっていて、車はそのレールの上を走るのが通常という変わった道。 電車道の両側にはちょっとしたエンセキがあって、その外側は側動的な車道になっている。 このあたりは説明がとてもむつかしい。ともかく、非常に走りにくい構造であることは 間違いないのである。 土曜の朝というのに車の処理をする人がわずかに二人で、五つ星ホテルからやってきた 我々も長い待ち時間を要求される。やっとやってきた車は、プジョー206だった。 たしか、ホテルではフォードを頼んだはずだったがプジョーである。しかし、下手をすれ ば、フィアットかなんかのイタリア車になりそうだったので、ちょっとは安心する。 この車はマニュアルミッションである。ちょうど最近日本でも左のマニュアル車に乗って いるから、苦もなく運転できる予定だった。マニュアル車はちょっと安くて、保険など 全部込みこみで200ギルダーだということだ。 ところでハーツは、土曜は午後から休みで、翌日は9時から営業である。我々は9時に 返しに来たのでは間に合わないので、夜中に返す方法を聞く。もちろん英語であるから、 わたしにはもちろん...難しい。(いまさらながらに書く冗談ではないと反省している) なにやら、そこらの駐車場に止めて、キーを所定の場所に放り込んでくれといってると 見た。しかし、不安一杯でいるところに、忙しい係員は店に入ってしまった。それどころか、 後ろから次の車がクラクションをならして出ろとせっつく。なにやらわけのわからんままに、 車を発進させる。目の前は例のごとく、電車道である。これを、工事中の歩道から左折で でていかねばならない。 ままよ!!っと、交通に気をつけた上で、左にハンドルをきる。もちろん、電車道は いやだとばかりに、エンセキを乗り越えて...! 「がりがり!!」えらい音が響き、地平さんはすでにこの車旅を選んだことを後悔した。 あとから考えれば、あたりまえに「行くべきでない」選択であったが、夜、返しにきた時、 その電車道のあまりの狭さに、朝の行為を正当化しても良いとおもった次第ではある。 ともかく、ハーツ社から高額の請求がきたとしたら、あれを誰かがみていたのだろう。 一応あとでチェックしてみたが、外傷は皆無だったとみたが... (後記:顛末については上で述べたとおり、きちっとした請求だった。) さて、スタートから大騒ぎの上に、アムステルダムの道はおそらく世界最悪であると確信 する道であるのみならず、土地の交通ルールに自信がないとくれば、次に来ることは 決まってる。そう、道に迷ったのだ。もともと、エンセキ突破の左折も、店の係員が、 ロッテルダムに行くならそっちと教えてくれたのだが、すぐわけがわからなくなったので ある。不安げな地平さんに一生懸命「読めない」はずの地図と格闘してもらって、「話を きかぬ」はずの私も、彼女の言うことを一生懸命聞いて、なんとか高速道路に乗ることが できた。少なくとも超危険状態は脱したらしい。 高速にのってしまえば、あとはひたすら走る。なくしたビデオには「UIT」と書かれた 出口のサインをはじめとする看板などが写っていたはずである。地獄のアムステルダムを 出て、スキポール空港といかにも飾り窓のお国柄らしい名前の国際空港のそばをとおれば、 あとはしばらくのどかな農村風景が広がる。(もうそろそろ、オランダ批判を止めねばと 気が付いた。帰りもトランジットで寄るのを思い出したのである) 車で出かけたことの理由の一つに、風車がある。つまり、近くで見ることができるだろう と踏んでいたのだ。これは見事にあたり、スキポール空港からロッテルダムにかけての 道々、美しい農村風景の中にとてもマッチした風車をいくつか見ることができた。 (突然ごまをすってるわけでは決して無い。信用していただきたい)オランダにはあの 有名なアンティーク的な風車もあるが、おそらく風力発電と思われる風車をもたくさん 回っている。風力発電は日本でも取り入れて欲しい無公害資源だ。「景観が損なわれる。」 などという愚かな理由で設置を拒否している町か村の話を読んだことがあるが、オランダ を一度見てみればよいと思う。わたしには機能美を感じることができた。 ロッテルダムの周りには「ring」と呼ばれる環状高速がある。(アムステルダムも環状 高速が周りを囲んでいる。)ロッテルダムは世界最大の港で有名なので、とりあえず港を 見てから次へ行こうとしていた。ところが、この環状線のどこを下りればよいのか難しい。 やがて、「ユーロポート」という言葉が案内板に現れたので、それにちがいないと向かった が、どうもこれは違ったようだ。ロッテルダム港の突端のほうにあるその場所付近を最後に 反転し、「ロッテルダムといっても、ただの港やったね」と、勝手に納得することにして、 次の目的地であるベルギーはアントワープに向かった。 高速道路を絶好調で南下していると、渋滞にでくわした。結果的にはただの工事渋滞で あったが、なにやら非効率的な工事はどこの国も同じようなことをしているらしい。 渋滞を抜けてちょっと行ったところで、なぜか銀行がついている休憩ポイントがあった。 ここでトイレを借り飲料水を買ってから出発。と、ベルギーに入ってしまった。 ヨーロッパの国々は、本当に無国境化が進んでいるらしい。ベルギーを示すものは、 ただ看板にベルギーらしきアルファベットが書いてあっただけである。 国境からしばらく(50kmほどだったと思うが、看板を撮影したビデオ...もう、 この話もやめよう)走れば、「フランダースの犬」で有名なアントワープの町並みが 現れる。ここは、ほんとうに中世の町そのものといってよいだろう。とても気分の良い 町だった。もう一度ゆっくり来て見たい町である。ただ、道路事情はやはり悪い。中世の 町並みがそのまま残っているということは、これはアムステルダムでも同じだろうが、 基本的に車がとおるようにはできていないのである。 そこに、これまた不思議というか、逆にいえば当然なのかもしれないが、自転車用の道 を作っている。ご丁寧にも、小さな自転車の絵が赤ー青に光る専用の信号まであった。 そして、これまたあたりまえだと思うが、自転車通路を歩いていた場合、自転車は決して よけてはくれない。かなりの勢いでそのまま走ってくる。気を付けねばならない。 あと、アントワープは駐車の仕方が良くわからなかった。パーキングチケットを買う のだが、停めてよいところと違うところの区別がよくわからない。これもアムステルダム と同じである。アントワープでは、しばらく停める場所を探してうろうろしてしまった。 駐車後も、先ほどの銀行をパスしてしまったのが失敗で、コインが一つも無い。停めた 場所のあたりには、貨幣交換所も無いので困ってしまった。 地平さんが、地元の人にキャッシュデイスペンサーの使い方を聞いている。彼女は難なく 聞き出して、いくらかのお札を手に入れてきた。この札を近くのパーラーに行って、 「オツリヲこいんデチョウダイ。チュウシャジョウニツカウアル!」といいながら、 コーラを買って。ラッパ飲みしてから駐車券売機へと向かう。この券売機は、入れた額 に相当する駐車可能時刻が印字されて出てくるタイプのものだった。しかし、英語が どこにも書いていないので、「時間」という単語すら想像がつかない。最低料金らしい 額をとりあえず入れてみたら、1時間後の刻印をして出てきたので、さらに1.5倍程の 額をいれて、2枚の駐車カードを車に置いておいた。これで、だいたい安心だろう。
さて、フランダースの犬で有名な「一度は見てみたい絵」があるのが、この町のノートル ダム大聖堂である。残念なことに、われわれが到着したときはすでにしまっていた。なんと、 3時にはしまってしまうのだ。しかし、この聖堂はとても威風堂々としていてすばらしく、 また、正面ではキリストに扮した人が座っており、献金をすると手を上げるパフォーマ ンスで人々を笑わせていた。
ベルギーワッフルをほうばったあと、なぜかアルゼンチン料理の店で食事をし、しばらく 中世の町並みをうろうろする。レースでつくられたふくろうがとても印象的だったから、 思わず買ってしまった。夕闇が迫ってきた。しかたなく、とてもよい印象をもったまま アントワープを後にする。またゆっくり来て見たい。
帰りもちょっと迷ったものの、アムステルダムへ向けて一直線の道を走る。アムステル ダムに到着後もかなりの時間迷ったが、地平さんがまたしても大活躍をして、なんとか 元でたエンセキの前...、ハーツの営業所に帰ってきた。ちょうどそこに、バイクに 先導されたほかのレンタカー客が帰ってくる。彼女も迷っていたらしい。ほんとうに、 アムステルダム市内を運転するのは難しいのである。 さて、車を停めねばならない。近くの駐車可能な地帯がよくわからないが、とあるタイ レストランの前に適当な場所をみつけ、そこで食べていたお客に停めてよいか確認し、 しかるべき料金を払って駐車する。このパーキングマシンはよく壊れており、3台目の 機械で初めて料金を払うことができた。 10時を過ぎたアムステルダムの町を、チンチン電車にのってホテルへ向かう。これまた 無賃乗車自由自在の検札なしのワンマンカー。社内には無賃乗車の罰則などが書いて あったが、真面目に払っているのは旅行者くらいではないか?ともかく、一度乗って 見たかったので、もちろんお金を払い、しばらくの小旅行を楽しんだ。 ホテル周辺の夜のアムステルダムの町は、若者にあふれ若干怖い。 飲み物を買って、そうそうにホテルに引き上げた。 この文章を書くのも疲れたが、この日はもっと疲れて、ビデオのキャプチャリングも おこなわず、ベッドにもぐりこんだ。 明日は、いよいよスウェーデンである...

8月12日(日)

ビデオカメラを盗られたのはこの日である。 散々書いた話で忍びないが、オランダはあまり治安もよくなかった。空港に向かう アムステルダム中央駅で、今度はなれた手つきでチケットを買っていると、「小銭をくれ」 といって人が一杯寄ってくる。「朝飯をくってない」の、「仕事がない」のと言ってくる。 相手をすると何人に払わなければならないかわからないので、全部無視したが、ほんとうに しつこいのもいて、少々気分が悪くなる。 スキポール空港の免税店で、少々お土産などを買う。シルバークリスタルのふくろうが とても綺麗で、コレクターとしてはほうっておけなくなり散財する。あと、レンタカーを 借りた日の朝、五つ星ホテルの朝食を食べたのであるが、その時あったちいさな一口チーズ の包みなども手に入れる。 読めもしないながら現地の新聞も記念にとかって、飛行機に乗り込もうとしたら、いくら でも配っていたので、またしても失望する。旅なれていないというのは、なんでも損なもの である。 散々なことは書いたが、いろいろ面白い経験もできたオランダを離れた飛行機は、あっという 間にスウェーデンはアーランダー空港へと滑り込んだ。飛行時間は1時間半くらいである。 朝から、治安の悪いところにいたのと、この国は2度目ということもあって、なにやら とても安心した気分になる。これが後の盗難につながったとは、今も思いたくない。 バスで30分ちょっと走ると、ストックホルム駅へと到着する。リンシェーピンへの切符の 買い方は、以前のスウェーデン紀行でずんどこやったので、今回はわりとすんなり買えた。 電車の時間までは、3時間以上あるので、買い物がしたい地平さんとわかれ、わたしは前回 みそこねたノーベル賞で有名な市庁舎を見学に行った。 この見学は、50クローネを払って、案内の人に連れて行ってもらわないと許可されない。 ツアーは1時間ごとに出ていて、最後は3時である。前回来たときはもう終わっていて、 みることができなかった。 この内容こそ、ビデオでご紹介したかった。なかは、とても綺麗な装飾などで一杯である。 また、ストックホルム市内を見渡せる塔も15クローネを払えば見学でき、ちょっと登りが 大変ではあるものの、一見の価値はあるのでお勧めしておきたい。 (画像については、いくつか写真にも撮ったので、帰国後いつかアップしておこうと思う。)
(後記:右上の写真はノーベル賞の受賞式典が行われる「青の間」である。もともと、青色の  部屋とするつもりだったのが、赤レンガで部屋が出来上がった後、その感じがとても良かっ  たので、設計者がそのままとするように変更したが、もうこの部屋のことを「青の間」と  呼んでいたので、名前だけは残ったのだという。  受賞式典では、この部屋にイスが敷き詰められる。イスは60cmに一つ置かれてゆく。  何年か前までは国王らは70cmだったが、現在は「民主主義」に従って、全員が60cm  間隔になっているそうだ。これは、ガイドさんから「聞いた」話であるから、わたしの  英語力を良く知っておられる読者のかたがたはそのあたりをご理解の上、真偽を判定  していただきたいのだが...)
(後記:左上の写真は、ノーベル賞を受賞した人がインタビューを受ける部屋だそうで、  そのときの案内の女性によると、通常は公開しない部屋がたまたまか特別かさだかで  はないが開いていたらしい。)
(後記:上の写真は市庁舎の塔の最上部から撮影したものである。雨が降っていたので  あまり美しくないが、晴れていたら素晴らしいスナップとなったことだろう。) ストックホルムの駅を出て、というより出る前に盗難に気がついたので、1時間45分ほどの 列車での話題はビデオのことで持ちきりだった。なんとも残念無念ではあるが、こればかり はどうしようもない。リンシェーピンに到着し、駅に警察がないことを確認した上で、ホテル にとりあえず向かう。ホテルも前回同様のエコクセンというホテルである。 到着早々、フロントの女性に警察の場所を聞くが、前に書いたとおり移転直後なので彼女も はっきりと場所がわからない。地図に「この辺です」という丸を書いてもらって、9時を まわりさすがの北国も夕暮れになりつつある道を歩き始めた。と、ここを曲がってといわれ た一つ目の道が、工事中でいけない。しょうがないので地図を片手に別の道をあるく。 この地図がなかなかたいしたもんで、車のとおれないような小道までかいてあった為、なん なく迂回できて、「この辺」にたどり着くことができた。 そこは、なにやらあやしげな高台の広場に工事中の建物が一杯で、しかも、おしゃれという よりモノモノシイという印象の場所であった。やっと警察らしい案内が出ていたので、それ をたよりにしばらく歩くと警察があった。 処理をしてもらったあとで、サーブの新車のパトカーで送ってくださった警察の人が、 「ここはもともと軍隊が使っていた場所なんです。警察は市内にあって、車が停められない などで不便だったので、こっちへ移転してきました」と、説明してくださった。 「コレナラ、イッパイ、クルマガトメラレマチュネ!」といったら、笑っていた。 スウェーデンのパトカーにも乗れたし、まま、良い日だったのではないだろうか?と、 やせ我慢のひとつもしたくなる。(また太ったので、「ブタ我慢」とでもいうべきか?) 会社の出張だったので、盗難保険に入っていてくださるのか心配だったが、メールで確認 したところ、ありがたいことに盗難保険も大丈夫らしい。 残念なのは、あのテープに入っていた内容で、たしか、日米野球で来日したランディー・ ジョンソンや、バリー・ボンズの雄姿をはじめ、山形の山寺の風景や、戸隠の神社など いろいろな思い出が、未編集のままになっていた。 今後はどんな国でも、もっと気をつけねばならないと、反省することしきりである。

8月16日(木)

今回は前回と違って、完璧に仕事のためにスウェーデンにきている。 前回は、研修の合間にスウェーデンの郷土料理を楽しむ集いに参加させてもらい、伝統の 食べ方を教えてもらったように思う。これは完全にゲスト扱いだった。 今日は、到着以来朝8時から夜の7時8時まで毎日仕事をしている我々をおもんばかってか、 現地でサポートをしてくださっているクラースさんが、スウェーデンの家庭に招待して くださるというので喜んでついていった。 スウェーデンの人は、8時からはたらき、5時ぴったりに帰る。もう、見事なばかりで ある。ただ、何人かの人がのこって仕事しているが、8時にはほぼ無人といえる。 8時までいたときは、ほとんどせきたてられるような雰囲気で、仕事場を後にした。 この日は6時30分で仕事を切り上げ...と、いっても定時は過ぎているのであるが、 クラースさんの運転するボルボに乗りこんだ。彼は、まずゴルフをしようという。 わたしも下手のよこすきでゴルフをたしなむので、スウェーデンでも一度振ってみるもの 良いだろう。リンシェーピンの町から、ほんの少し行くと、もうゴルフコースと練習場の ついたゴルフ場につく。なんでも4つのコースがあるらしく、インテンシアはそのうち 3つのコースの会員になっていて、ゴルフを気軽に楽しめるらしい。プレーフィーも、 200クローネというから2500円くらい。「日本デハ2000くろーねクライネ...」 といったら、本当におどろいていた。ちょうど、日本に赴任してきたばかりのホーカン さんは、ゴルフをはじめたばかり。彼には失礼だが、まったく不幸としかいいようがない。 クラースさんは5歳の時からゴルフをやって、現在ハンディー3。練習場で、見事な ショットをみせてもらった。わたしも6番アイアンといったところを借りて、まずまず のショットを見せたが、パット練習場でアプローチをやってみることになり、知人には 100ヤード以内世界最低といわれる腕を見事に発揮する。 その話を彼にすると、「そんなことないよ。もっと下手な知り合いがいる」と、慰めて? くれた。ひとまずその彼に、世界最低の称号をゆずることにしよう。 地平さんが生まれて初めてクラブをもって、たまにはわたしよりも上手いアプローチを 見せた後、いよいよ郊外にあるパルさんの家へと向かう。クラースさんは独身なので、 聞くところによるとわたしとそんなに変わらない生活をしているらしいから、招待と いうわけにはいかないのではないか。 パルさんの家のそばには、航空機の博物館があった。残念ながら、遅い時間まで開いて いないが、外に展示されている飛行機をいくつか見ることができる。リンシェーピンは 空軍の基地がある。古くから使用している機体を置いて見ることができるようにして いるらしい。これは、いつかゆっくりみたいものだ。 パルさんの家は、インターネットで探したそうで、e−houseなどといっておられ た。e−houseは日本では良い家なんて意味ですよといったら、とてもよろこんで、 リンシェーピンで家を探すということはいかに困難かという話をしてくださった。 どの国も悩みになりそうなことは、同じらしい。 奥さんが準備してくれたパスタを食べる。これがなかなかおいしくて、たらふく食べて しまった。今回の食卓は、庭のテラスといった按配の場所である。夕暮れを過ぎ、とて もしずかなひと時に満足していると、列車がはしる音が聞こえてきた。 地平さんが「あれは何の音?」と、きいたところ、クラースさんはバッタの類か、 クリケット?だという。なんじゃ、そりゃ?まさか、バッタの大量発生かいな?と思った ら、さにあらず、まさに日本ではおなじみの、秋の夜の虫の音を話題にしていたのだ。 地平さんもわたしも、あの「ギー」という音にはあまりにもおなじみで、ほんとうに 聞こえてすらいなかったのだが、スウェーデンではめずらしいらしく、「あんな音は 南ヨーロッパに行かないと聞けない」という。そういえば、日本で作成されるドラマから せみの音は抜いて出すという話を思い出した。多くの日本人以外のひとにとっては、 せみの音はただの雑音なので、「ノイズが入っている」といって交換を要求されることが 多いことから、はじめから抜いて出すという。 日本人であることを痛感した。 さて、パルさんがスウェーデンの北のほうに行ったときの話をしている。 「なんどか、休憩しながら走っていくと、ガソリンスタンドに誰もいなくなったんだよ。 なぜだと思う?夜中の3じだったんだ。太陽が24時間しずまないんだよ!!」 わたしがスウェーデンに行くといったとき、何人もの人が「むこうは白夜かね?」と聞いた。 ところが、今、現地の人に白夜に遭遇して珍しかった話を聞いているのが、とても珍妙に 思える。クラースさんも、「アメリカ人はスウェーデンといったらホッキョクグマがうろ うろしていると思ってる」などという体験談をしている。そのうち、「スコットランド人は スウェーデンがどこにあるかもしらない...」なんて話になってきた。これには、マグダ (わたしのカナダのホストマザーでスコットランド人)が聞けば怒るだろうなぁと思うと、 楽しくなってしまった。 マグダのことを思い出していたら、デザートが出てきた。「ルバーブのパイとアイスクリーム です」と、奥さん。ん?ルバーブ?ルーバーブじゃないのか? 「ソレッテ、オナカノクチュリデチュカ?」と、聞いてみる。 「そう、使い方によっては、おなかの薬にもなるし、洗剤のようにもつかえるよ」パルさんが こたえる。 またしても、マグダのことを思い出した。わたしが、マグダのうちでパンを食べるとき、 一番好きだったジャムが、ルーバーブジャム。彼女は家にルーバーブを作っていて、それが おなかの薬になることなどを教えてくれたのである。 懐かしい味に本当に感激しながらも、「スコットランドとスウェーデンは、ほんまに近いん やな」と、地図以上になっとくした瞬間であった。 そのあと、しばらくスウェーデンの人々の階級意識や敬称について話を聞いた。なんでも、 有史以来今年初めてマスコミがスウェーデン国王のことを、「あなた」と呼んだそうである。 それまでは、「国王」とよぶのが普通だった。しかも、これは一般民衆も同じで、高い 階級や高級な職業の人のことを、苗字や名前で呼ぶと失礼だったそうである。そして、 夫人は、「将軍の奥さん」といった呼び方がされていたそうだ。もちろん、高い階級の人で あることを意味する。この話は、ほんの数十年前まではあたりまえだったそうである。 農村などでは、格も重要で、格の違う人は同席もできなかったという。農村以外でも、 「高貴な人々(ノーブル)」にはじまる4階級に分かれていて、いろんな制限があった。 などと、いうような話を聞いていながら、最近得意としている江戸との違いを思い浮かべて いた。どうも、聞く限りではスウェーデンのほうがかなり過激な階級意識があったと思われる。 日本は士農工商なんていうが、実質は「士」とそれ以外であり、しかも「士」は超少数だった。 同じ場所にいることもできないなんていうのは、よほど特別な人との関係だけだったよう だし、名前を読んだら失礼という文化もすごいものである。「米屋の奥さん」は別に階級 意識の現われでもないし、名前で呼んでも何の問題もなかったはずである。 (これはちょっとちがいますね...) パルさんは、「わたしも元軍曹(サージェント)だから、君は軍曹の妻だね」なんて言って いる。もちろん、残念ながらわたしには微妙なニュアンスなどがわからないので、どの程度 の階級意識があって、どのくらい人がそれに縛られていたのかなどはわからない。 ともかく、古い習慣というのは多かれすくなかれ、「階級」や「差別」といったものの上に 成り立っているらしいということだ。 日本の話をしようとしたが、日本の歴史はどのくらい?という質問に、2000年くらいと 控えめにこたえると、「そりゃほとんど石器時代(ストーンエイジ)だな」といわれたので、 「いえすサマガ、ウマレタコロヨ!」と、婉曲に否定しておいた。 さて、これから日本の話をしないとと、プレッシャーを感じていたところ、気が付けばもう 10時を過ぎていた。楽しい集いはお開きとなったのである。 この集いでは、彼らは暑い暑いといっていたが、快適な秋のような夕べをテラスで話をしな がらすごすという良い経験をさせてもらった。おいしい料理と、おいしいパイに加え、 コーヒーカップに描かれている、「今年91歳の祖母が書いたのよ」という事実がまったく 信じがたいほど美しい絵までも堪能させていただいて、感謝の気持ちたっぷりで、パルさん の家を後にする。許されるなら100クローネほどでも置いておきたいくらいだが、人類の 習慣というものは難しく、現金をおくことは失礼らしい。 こういう後ろ髪を引かれるような思いを、うまく解決する方法があれば知りたいものである。 クラースさんのボルボは快調に走って、わずか数キロのところにあるホテルの前についた。 ほんのわずか前まで、古いランプの明かりが美しいテラスで、数十年前と虫の音以外は なにもかわらないだろうひと時を過ごしていたのに、わずかこの時間で都会の生活である。 スウェーデンというところは、本当に生活を大事にしていると思う。 われわれ日本で生活するものも、こういった要素こそ取り入れて、生きてゆけないもの だろうか?本当にうらやましくなってしまった。

8月19日(日)

今日はおそらくこの旅最後の休日である。 昨日の土曜日も昼過ぎまで作業をし、その後疲れてすぐに帰って寝てしまったので、土曜 というものを味わった気分ではない。つまり、今日がリンシェーピンでの最初の休みの日 ともいえる。 わたしは昼前まで寝て、ごそごそと起きだした。外は、たまに太陽が雲に隠れる絶好の 散歩日より。カメラを片手に歩き出す。
後日アップするための画像として、滞在しているエコクセンというホテルや、その近くに ある美しい公園などの写真をとって歩く。そこから5分もあるけば、リンシェーピンで おそらく一番目立つ建物である教会へとたどり着く。
上の暗い写真は、前回の旅でとったものであるが、今回は昼の写真がとれたはずだ。 丁度正午を迎えて、教会から人が出てきた。今日は日曜日なので、ミサが開かれていた ようである。人がだいぶ出てくるのをまって、紛れ込むように中へ入らせてもらう。
聖堂の中は、ほとんどが礼拝堂だった。わたしは、何層かにわかれたつくりを想像して いたのだが、大きなひとつの部屋だったのである。礼拝堂はカソリック教会らしく宗教画 や、十字架のキリスト像があり、ろうそくが何本もともされていた。賛美歌の番号と楽譜 が書かれた小さなプリントをひとつもらう。これを歌うの?と思うほど、ごく簡単な譜で あった。俳句に歌がついてるといったかんじであろうか。さすがに、この中を撮影する のははばかられたので、ひとつの席にすわり、お祈りをしてから引きあげる。 教会を後にして、最近歩きなれている町にやってくる。 通りかかるたびに甘いにおいをさせているアイスクリーム屋が、今日も開店していたので たちよる。日本でも、わたしが生まれた頃はたしかそうだったと思うが、日曜日はたくさ んの店が休みなのである。 このアイスクリームは絶品だった!また機会があれば、食べたいとおもいつつ後にする。 リンシェーピンの中を歩き回っていると、ついにというか、こういう「音」に出会った。 「ここが1万五千円...」 そう、日本語である。今回は旅で来ているという気分ではないので、いつもの興ざめ感は なく、みなさん大変ですなぁという感想を抱く。このあと、歩き回った挙句に立ち寄った、 コンビニエンスストアーでも、聞いたことも無い日本語の若い女性が歌ううたが流れていた。 それも、アイドル系というべき甘ったれた歌であり、こればかりは場違いである。 ま、わたしが聞いたことが無いだけで、有名なのかもしれないが、これにはびっくりした。 ぶらぶら歩いていくと、なにやら「博物館」と書いた建物があったので入ってみる。 20クローネを支払って入ったが、入館者はわたしと、あとから入ってきた旅行者らしい カップルのみ。ハリウッドの蝋人形館で一人だった時は、どこかからホールドアップの声が かかるかと心配したものだが、ここはアメリカではない。ゆっくりと見させてもらった。 アメリカと違うことがもうひとつあった。それは、案内が英語ではないこと。つまり、 恐怖は感じないかわりに、なんのこっちゃらさっぱりわからなかった... 絵などの美術品については、勝手に感想をめぐらせればよいので、それなりに楽しめたが。 出ようとすると、係りの人が呼び止める。 「この絵(この博物館で有名らしい子供の喧嘩を描いた絵:下)の説明がすぐに始まります。  英語も少しだけまじりますが...」
と、言われた。わたしは、「ワタチ、エイゴモジョウズジャナイアル」といったら、 にこっと笑って、いってしまった。うむ、ちょっとくらい愛想のひとつでも言ってくれた ら、おそらく数人しかいない観客の一人にはなったかもしれんのに... (上の絵をクリックするとその博物館のHPに飛ぶようにしました。 AUGUST MALMSTROM という人の絵で、この人の特別展示もありました。) 駅の近くで見つけた案内板によると、この町なかなか広いらしい。スウェーデンで5番目 の町だというのも納得がいく。下手に迷ったらえらいことになるなと感じて、駅で帰りの 為の時刻表をゲットしたので引きあげることにする。 パルさんのうちでの話題の中に、リンシェーピンの家事情というのがあったが、彼いわく リンシェーピンには大学があって、その卒業生が起業をするので、どんどん人が集まって、 いまではアパートを借りるのも難しい状況という。スウェーデンの人にとっても、この 美しい町に住むのはすばらしいことなのかもしれない。
わたしにとって、スウェーデンといえばこの町とストックホルムしか知らないわけで、 他の町の印象をしらないだけに、うかつなことは断定的には書けないなと感じる。 実際、たとえばスウェーデンの人が、関東なら軽井沢、関西なら奈良の学園前や、芦屋 あたりだけに滞在したとしたら、「こりゃええわい!」という日記を書くだろうからで ある。ただ、ここが芦屋のようなところだという話は聞いたことが無いが... 歩きつかれて帰ってくると、日曜日といってもいくつかの店は開いていることに気づく。 どうも日曜は昼から開店という店があるようだ。さっき食べた美味のアイスクリーム屋に は、大行列ができていた。さっきはすぐに買えたので、ラッキーだったらしい。 あしたからの仕事に備え、ちょっと熱めの風呂につかって疲れをとるつもりが、持ち込ん だ本が面白く、逆に疲れて風呂をでる。 アインシュタインでなくても、休みがあっという間に過ぎるということは知っているが、 まったくはかないものである。

8月22日(水)

突然のように23日、帰国することになった。 もとはといえば、23日出発だったから予定通りなのであるが、延長が基本路線だった だけに少々さびしい。 21日は、18時にはしまってしまう駅の予約カウンターに行くために、いつもより少々 早く仕事を切り上げた。現地でサポートしてくださっている、ソーレンさんもいつもより 30分ほど早く仕事をやめて、駅まで送ってくださった。そう、16時30分まで働いて いたのである。彼は、最近手に入れたばかりというマニュアルのベンツに乗っていた。 走行距離は13万キロほどいっているが、ベンツはベンツ。特にマニュアル車は日本では あまり見かけないので、乗せてもらって感激した次第である。 飛行機はアーランダー空港発10時ごろ。つまり、2時間前にチェックインするとすれば 8時に空港着が必要。この辺を言葉で発すれば、南極に連れて行かれてはかなわないので、 駅ではちゃんと紙に時間と場所を示して、駅員に示す。 「アーランダー空港(ストックホルム)に少なくとも8時」(これはさすがにカタカナ化 しないし、したくない。でも...) 「わかりました。では、9時50分アーランダー着の電車が良いでしょう」 「チガウアル!!あーらんだーニ8ジアルヨ!!」 紙に書いてもこんな調子だから、言っていたら本当にどうなっていたかわからない。 こうして、無事空港行きを2枚ゲットしたが、これがなんと朝5時発で空港7時45分着。 ホテルは4時代にチェックアウトしないといけない。当日が思いやられる。 さて、次は地平さんの買い物に付き合う。とはいっても、もちろんわたしも興味が無い わけではない。このリンショーピン最大の、ショッピングモールへ出かけるというわけだ。 前回、そんなものがあるとは露ほどもしらなかったし、行く時間もなかったが、今回は 地平さんが事前に調べてくれていたので、存在をしった。 地平さんは日曜日にも自転車を借りて出かけていたので、場所は良く知っている。今日は バスで向かうことにする。 バスはなにやら先払いである。16クローネを支払って、地図を頼りにバスに乗る。 しばらく走っていくと、なにやら農村地帯に入っていった。本当にこれでいいものか? 心配はどんどん膨らんでいったが、バスはどんどん田舎へと入っていった。 ふと、ロータリーを回ったところで、バスはエンジンを止めて、乗客は我々以外みんな 降りてしまった。運転手さんがやってきて、なにやら言い始めた。 わたしは、さすがに迷ったとわかったので、 「ワタチタチ、マヨッタアル。エキニカエルアルカ?」 と、聞いたけれど、この運転手さん、まったく英語を解さない。 身振り手振りで、「どこに行きたいの?書いてくれればわかるよ!何番地?ホテル?..」 なんて、一生懸命いってくれているらしいがラチがあかない。 彼は途方にくれて、今度は帰りのバスに乗ってきた乗客に、「英語の話せるひといます?」 と聞いているらしい。 ラッキーなことに、若い女性が一人通訳としてやってきた。 彼女から、ショッピングモールは番号が若干違うこと。このバスは今から駅に帰るので、 そこで乗り換えればよいことなどを教えてくれた。運転手さんもやっと納得して、運転席に 帰っていった。さて、運賃はどうなるものか?? 再び彼女に聞いてみると、なんとこの16クローネで1時間分だという。だから我々は、 駅に帰るのはもちろんのこと、そのままショッピングモールへもいけることがわかったので ある。彼女に大感謝した。 いきあたりばったりの旅になれていると、こういう親切にめぐり合って、人間のよさを味わ うことができる。駅について、彼女に再びお礼をいって、運転手にも手を振ってわかれた。 ショッピングモール行きのバスはすぐにみつかり、今度は問題なくたどりつくことができ たのである。 さて、ショッピングモールはたしかに巨大で、いろいろなものがあったが、なにせ8時で あらかたしまってしまう。冒険もやっていたから、あまり時間がなかった。地平さんは、 なにやら家庭用品を買い込んでいたようであるが、わたしにはほとんど縁がないので、 500円ほどの、しかしそれにはとても見えない時計と、手触りのよいガチョウのぬいぐ るみを買って出てきた。この地に住んでいれば、興味がありそうなものが一杯あったけれ ど、興味をもったらえらいことになるので、我慢していたといってもうそではない。 スウェーデンは家具が有名である。それらの家具をより引き立てる調度品がおもしろく なるのも当然だろう。日本に持ち帰りたいようなものも、いくつかあった。 帰りは、なんなくバスに乗り、1時間ルールも適用し、ほぼホテルの前まで帰り着いた。 帰国の前々日になって、やっと市内バスを乗り回すようになった。良い町だなぁという 感想を新たにする。 22日は、できるだけ残りの仕事をかたづける。ソーレンさんは、やはり5時きっかりに 帰ってゆくので、別れをいう。英語が上手くないのが本当にもどかしいのが、こういった 感謝の話をするときだ。ベンツのことを誉めるのを忘れず、さよならをした。クラースさん をはじめ、お世話になった方々は今この地を離れており、挨拶すらできない。 また、メールをだしておくことにしよう。 さて、今から荷造りである。このPCも荷物の中に入ってしまう。思えば、ビデオをはじめ いろいろなことがあったが、そのあたりは帰国後、締めとして記させていただこう。

8月24日(金)

日本に帰ってきた。 朝4時30分、予定通りホテルエコクセンをタクシーで出発。 2週間ほど前には、「タクシーを無事よべるもんなのかいな」なんてことを怖がっていた ものだが、帰るころには予約もするようになった。もちろん、ホテル・エコクセンのフロ ントの人々が一生懸命聞いてくれたからなのかもしれない。
タクシーは、朝早く呼ばれたのに、わずかな距離のところにある駅へと滑り込んだ。 早朝の駅には人の姿はほとんどみあたらない。日本と違って、プラットホームに入るには 検札が必要ないからでもある。我々が乗る電車がどこにくるかは、モニターに表示されて いる。 電車は既にプラットホームにいた。リンシェーピン発らしい。
写真を撮る。行きのストックホルム駅でも、同じような写真を撮ろうとして、悪人にビデオ カメラの存在を知られた。今日は、悪人がいたとしたら、すぐにわかってしまうほど人が 少ないから、大丈夫だろう。 しかしながら、列車に乗り込んだ後、荷物の置き方などが気になる。遅かりし注意という べきか、良い教育になったというべきか。 午前5時きっかりに電車はリンシェーピンを後にした。長い帰国の旅が始まる。 さすがに朝が早かったので、うつらうつらとするうちに、午前7時45分、アーランダー空港 駅に到着した。地平さんはわたしのいびきがうるさくて、寝られなかったらしい。 わたしは疲れている時に、かなり盛大ないびきをかくらしく、一度などは弟にビデオに とられたほどである。ただ、この話は日本に帰ってから聞いた。と、いうことは、もう一度 被害にあった人がいたというわけである。これは後に記す。 空港ではじめに入った店で、またしてもきれいなシルバークリスタルの小物が目に入った。 今度は、ねずみとふぐの小さな置物である。地平さんによると有名なブランドだそうだ。
スワロフスキーなどといわれても、私のような奴には全く無縁の存在であった。 しかし、これらは本当にきれいで、しかも小さい物は2千円そこそこで手に入る。 これが、高いと感じるかどうかは人の好みそのものだろう。今のわたしには、買いだと感じた。 右上の小さなねずみは、ほんのたった25mmほどのものだが、とてもかわいい奴である。 こいつと、左上のふぐ?を大小2つ買って、今回のコレクションとする。 行きがけには、ふくろうを大小2つ飼った?否、買ったから5つも買ったことになる。にわか スワロフスキー好きになってしまったようだ。 この子ねずみらを買った店は、出国手続き前なので、免税扱いにしてもらうには申告が必要に なる。空港内の店なので、申告書も一緒に書いてくれる。この買い物は全部で828クローネ。 飛行機のチェックインを済ませて金属探知機をとおった後に、免税申告書の受付がある。 いったいいくら返ってくるものかとおもっていたら、なんとこれが25%。110クローネが 返ってきた。免税店の利用というのはなかなかお得なもんやなぁと痛感する。 さて、スウェーデンから帰るとき、前も買ったお土産に、「Geisha」というフィンランド 産のお菓子がある。パッケージには芸者さんが描かれているので、日本をイメージしたものかも しれない。前回は、話題のために買って帰ったものだが、今回は、これがなかなか美味だった から、またいくつか買って帰ることにした。見かけられたら一度お試しあれ。 アーランダーを定刻どおり後にして、あれほどボロクソに書いたオランダへまたたどりつく。 スキポール空港では、乗り換えに2時間弱ほどしか時間がないので、免税店めぐりも制限される。 とりあえず、お土産の買い忘れなどをチェックして、チョコレートなどを買い込む。 ここでもスワロフスキーは光っていたが、今回については「呼んで」いる奴らがいなかったので 散財せずに済んだ。もちろん、高いものの中には「ええなぁ」と思うものがあるが、そういう のまでてを出すと、今後が怖い。ここは自制せねば。 自制といえば、この空港にはカジノがあった。これまたかなり惹かれたが、神様が時間をコント ロールしてくださって、次に気が付いた時にはもう時間が無かった。 乗り込む飛行機は日本行きである。当然ながら、日本人が多い、というか、ほとんどが日本人に 見える。一足先に日本に帰ったような気分になりつつも、なにやら遅れの原因をアナウンスして いる放送が日本語ではなく、かつ、その英語が理解できないのがなんとも悔しい。 結局、何のことか判らないまま、しばらくの時間が過ぎた後搭乗開始となって、飛行機に乗り込む。 これからの約12時間はとても長かった。うつらうつらするものの、もうだいぶ寝ていたことも あって、寝付けない。地平さんはもっとねつけなかったらしい。それは、先ほど書いた「大音量 音源」が隣にいたからである。私たちが座った席は窓際の3つあるもので、わたしは真中の席。 当然この音源の犠牲者はもう一人出る。 飛行機の中で、わたしは隣の中年男性がヘッドフォンをしたまま寝ていたので、この人はよほど 音楽がすきなのかと思っていたが、その理由がわかったのは、成田で地平さんに大音量音源の話 を聞いた後である。まこと申し訳ないことをしたものだが、こればかりはどうしようもない。 行きがけはそんなことは無かったそうだから、やはりよほど疲れていたのだろう。 この長い道のりで、たまに出る食事は楽しみだが、毎度の事ながらうまいと思ったことは無い。 今回のKLM便でも、やはり怪しげな食事が出た。こんなことならカップラーメンでも出して おけば、外国でのマクドナルドみたいなもんで受けると考えたのか、KLMでは夜食のような 扱いでカップラーメンが行きも帰りもでた。いらない人はアイスクリームをくれる。 これは良いアイデアだと思うので、もうあんな食事など出すのは止めて、インスタント食品や マクドナルドやKFCなんぞを出しておいたほうが、良いのではないかとも思う。 今後も今までどおり出すというのなら、サンドイッチの豪華な奴のほうが良いだろう。 こんなアイデアどこかで使ってはもらえまいか? 使ってくれたら、その旅行会社を選択したいものだ。 さて、そうこうするうちに、やっと飛行機は日本に近づいてきた。海の上を旋回し、しばらく すると見事なランディングで成田空港に着陸した。 いつも、日本に帰ってくると、とても寂しい気分になってものであるが、おかしなことに今回 は、そういった気分にならない。それはおそらく、基本的に仕事の旅であって、読めない文字、 聞けない言葉と戦ってきたので、なんでもわかることがとてもうれしかったからだろうと思う。 こうして、今回の旅は終わった。 さて、最後に一言記しておこう。 今回の出張では、またしても日本という国のことを考えさせられた。 欧州で生活している人々から感じる一種の余裕のようなものは、いったいどこからくるものか。 多くの人々が親切で、仕事も余裕をもってやっているように思えるのは、「隣の花」だから赤く 感じるのだろうか? わたしはそうは思わない。 ただ、少しずつ歳をとると、「では、なんなんだ?」という事について、よくわからなくなる。 と、いうか、断定的な発言が出来なくなってくる。 実を言えば、この文章の最後の部分。つまり、この部分は、何度も書いては消し、書いては消し を繰り返している。一度もホームページとしては更新していないので、誰も読んではいない。 中には、かなり過激な意見を書いていてもいた。もう、最初の原稿から一日たってしまった。 しかし... どうしても自分の意見として、ホームページに出すことができなかった。 なぜ、できなかったのか? それはおそらく、自分が書いていることに対して、では自分はどうかと言ったことを考えた時、 明確に「自分は違う」などと発言できなかったからだろう。 そして最後に、以下の文章にたどりついた。ちょっと長いが、本音として載せておきたい。 わたしは、今、一つの仮説を持って本を読んでいる。 カナダに住みに行った時、「人は世界中同じようなもんやろ!」という仮説を持っていった。 聖書は3000年読まれ、源氏物語を今読んでもわからんわけでなく、アガサ・クリスティー が描く「女とはこんなもの」なんて話は、遠く日本人が読んでもなるほどと思ったからで ある。違うなら、各種映画が世界配給されるはずもないではないか。 この説は、少なくともビクトリアの人々との間では、自分の中で検証されたつもりでいる。 ところが、最近はその同じはずの人間という範疇に「現代日本人」が入ってないのではと感じ はじめた。もちろん、自分もその中の一人かもしれない。何か変なのだ。 仮説とは、「江戸時代は精神的に余裕のある暮らしをしていたのでは?」というものであり、 左系の人が岩波や朝日の本を読んで満足しているのと同じような話かもしれないが、石川英輔氏 や杉浦日向子さんの本を読んで、「やっぱりなぁ」という感を強めている。 江戸時代には、きっと生活苦で自殺なんてことは無かったと思っている。死にたい死にたいなん て思ってる人はいなかったと思っている。みんな生きたかったのだろう。 そして、石川英輔氏の著作によると、江戸時代の人々は本当にやさしかったという。みんなで、 助け合って生きてきた。わたしは、それが普通だと思う。当時、そうでなければ、人は弱い 存在であって生き残ることができないからだ。 ところが現代はどうだ。死にたいと言う人が世に満ち溢れ、東京の中央線は毎日のように止まる。 これが不幸といわずしてなんだろうか?なぜ、この「平和」な世の中で、こんなことになるのか? この結論は、わたしの中でまだちゃんと納得できていない。 ただ、思っていることは、生活レベル、車の種類、就職先など、なんでも競争の項目として組み こまれた社会が生み出す病理だろうということである。 「人は一人では生きることはできない」などという言葉は、観念論上の言葉になってしまい、 心の中ではみな自分で生きていると信じていまいか? お金さえだせば、なんでもできると思ってはいないか? 水不足だといえば、行政のせいだと思ってはいないか? 食べ物が大切なものだと、考えなくなってはいないか? 総て、競争に勝った「勝ち組み」には、考えなくてもよいような話になってしまったのでは ないだろうか? なにも考えなくて良いように、人と付き合わなくても良いように、競争するのではないか? そして...これが、一番大事なことであるが、我々日本人にとって、そういった「モラル」を 教える仕組みが現在あるのだろうか?ということである。 宗教のある土地では、教会や集会がこの機能を果たしている場合がある。わたしが、ビクトリア で見た教会では、いろいろなモラルが議論されていた。手前味噌ながら、わたしが通った学校も ミッションスクールであったため、毎日のように礼拝という場で、そういった教えを聞かされた。 日本の国では、もともと子育ては地域の責任であって、親がいそがしかろうが、見ることのできる 大人が子供に世話を焼いて育てた。大切にせねばならないものや、人とのつながりなどを知らない 子供は生き残っていけないから、あたりまえのように大人が教えていたに違いない。 でも、現在の日本。先の「モラル」については一言で片付けることが出来る世の中である。 つまり、 「でも、金があったら、ほんとうは何でもできるのだろ。」 これは、日本だけではないのかもしれない。 しかし、税金を上げるといえば、文句しか書かないマスコミしか存在しないこの国に、共に 生きるなどといった概念が育つのだろうか? 子供の「なぜ食べ物を大切にしなければならないの?」という質問に答えられるのか? そういった国で、「ひとのやさしさ」などというものが育つのだろうか? それとも「やさしさ」というものは、そういった社会的なものとは関係ないものなのか?? 海外から帰ってくると、いろいろなことを考えさせてくれる。 今、世界はとても狭くなり、いろいろな人々が混じって仕事をするような世の中になっている。 言葉を勉強するのも良い。しかし、一番勉強しなければならないのは、人としてあたりまえの 行為とはどういうことかという事だろう。 ワシントン軍縮条約の会議で、日本は解読されている暗号の元、不利な会議をすすめなければ ならなかった。その中で、日本の主席をつとめた加藤友三郎海軍大将は、毅然とした態度で会議 に望み、軍縮条約を成立させ、その後のパーティで各国代表の帰国後の仕事について心配する 発言までして、各国代表の尊敬を集めた。司馬遼太郎が描く「竜馬が行く」の中の後藤象二郎も イギリス人パークスを相手に、毅然とした態度で臨み、日本人侮りがたしの感を抱かせる。 あたりまえの事。 これはとても難しい。 しかし、簡単そうなことが一つある。 それは、「人にやさしく接すること」だ。 自己満足になっても良いとおもう。できるだけ、気が付いた時にそうするようにしてゆきたい。 そうすれば、きっと国際人に一歩近づけるのではないだろうか。 了 (最後まで、まとまらない駄文にお付き合いいただきありがとうございました)


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