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英国滞在記(その2:Paignton 編)
おいおいこりゃなんじゃ!?
夢がかなうということ
学校生活など
文化の違いって?
お部屋さがし
ネタは何ぼでもありますが
流れを大切に
栄華を極めた時のソロモンでさえ
2004年1月31日から2月1日まで
はじめから変なことばかりだった。
今回の移動計画は、ショッピングモールの市場で相場より安く手に入れたドライブマップを使って計画
した。英国の道路はM=高速道路、A,B=一般道なんて調子に番号が振られている。このあたりは、
インターネットに書いていただいている方がいらっしゃるので、とても参考になった。感謝したい。
Mは制限が70マイル。Aは50マイル、Bは30〜40とのことだったが、実際には途中に住宅が
あったりすると、Aでも30マイルなんてこともありえる。
さて、今回まったく知らない土地でまた、知らない地名の中を走る。アメリカのときは、行き先がそれ
なりに知っている地名であったことが多かった。しかし、今回はほんとうに聞いたこともないような
地名がほとんどである。
そこで、紙に道路の番号を書き出していって、その順番に走ることにした。
行き先表示にある地名よりも、路線の番号を見るほうが簡単だからである。
Milton Keynes をでて、まずはA421を南に走ることになる。A43が見えたらそっちへ行くのだ。
雨が降っているのと、あまりなれていないのとで、今日は詳細のデータをとるのはやめにした。
どこをいつ通過しただけ、チェックの意味で予定の路線を書き出した紙に書いていくことにする。
心配していた Roundabout (ロータリー状の路線転換の仕組み:前出)の行き方も、やってみれば
わりと便利で、慣れてくると信号よりそっちのほうが良いと思えてくる。あれほど心配していたのに
ゲンキンなものである。
しかし、いままで運転した数カ国の中で、イギリスは一番運転が難しいと思った。
(道そのものはアムステルダムが最悪だと今でも思っているが)
この Roundaboutが一番の典型であるが、なにしろ注意しなければならないことが多いように思う。
だから、ほんとうに必死で走ったので、写真どころじゃなく、事実一枚もとっていない。
しばらく行くと、 「Bedford へようこそ」なんて看板がでる。
そういえば、Bedfordにある中古車屋に行ってみたいと思っていたことを思い出しながら走る。
Aの道路なのに、村の中のようなところも走っていて、減速しなければならないところが多い。
ちょっと妙に感じ始めた。
こんなに次の転換地点まで遠かったかな?
そこにA428こっちとでた。
走ってきたA421がなくなってしまう。これはまったくおかしい。
パーキングスペースに車をとめ、地図を取り出して唖然とした。
50分も北に向かって走っていたのである。
この番号たよりの闇雲作戦は、最初の地点から大失敗であった。
もちろんしょうがないので、Milton Keynes までもどる。
さっき、「さよなら!!」と叫んででてきた町に戻ってきたのは、出発から1時間30分が経過した
10時30分だった。
さて、そこからは道的には順調にいった。
数回間違ったが、今度は先ほどの経験から曲がる方向などを確認するようになっていたからである。
それでも数回、親切すぎる看板にだまされた。
と、いうのは、日本でもあるが、かなり前なのに「そこにいける」からというので、「こっち」なん
てでている奴にである。あと、完全な勘違いもあったりしたが。
ただ、相変わらず雨風が強い。ずっと緊張しっぱなしの運転というのはほんとうに疲れる。
M4で「風が強いから減速」と書いてある電光掲示のすぐ先で、なんと大きな広告を荷台に縦に取り
付けた小型トラックが100キロ近くのスピードで走っていた。広告の厚さは50cmくらい。
広告そのものは2mX3mくらいだろうか?荷台一杯の長さに立っているから、垂直尾翼をつけて
走っているようなものだ。この車が風にあおられて右左している。いくら仕事だといっても高速を
しかもこの風のなか、あまりに無謀だとおもった。あの後事故をしていなければ良いが...
英国はいまテストしている一角を除いて道は無料である。だから、途中にある普通の店で休憩をとる。
日本もこのシステムのほうが、出口の周りに産業が発達してよいのにと思う。ただ、Mの道には
日本と同じようなサービスエリアがあって、食事や買い物ができるところがあった。
運転しながらラジオを聴く。こちらではクラシック専門のFMがあるようなので、それをずっと聞き
ながら走る。こちらでは、ジョン・ウイリアムスの映画音楽なんかもクラシックである。なんと、
「ベスト20(売り上げ?)」なんてものもあって、「ラスト・サムライ」がはいったりしている。
要するにオーケストラを使う音楽がクラシックなのだろうと勝手に想像しておく。
そして、意外な事実を知る。
Milton Keynes編で、「英語の発音は勝手である。バッハはバックである」などということを書いた。
そのとき、うそばかり書いていたのでちょっと気を利かせるつもりで、「英語(米語?)」と、やっ
ておいたが...
これが、ほんとうに「米語」だったのである。
そのクラシック番組では、
「バッハ、モーツアルト、シューベルト、ガーシュイン...(ん?ガーシュインはアメリカ人だ)」
と、まったく日本人にとっても普通の発音で作曲家を紹介していた。
ほんと、うかつなことは書けないものだ。また、なんとアメリカという国は傲慢なことよと、あらた
めて思った。というか、この場合は田舎者の典型というべきだろうか?
さて、ただ一生懸命走っていたので、他にあまりおもしろそうなトピックもないまま無事 Paignton
にやってきた。小さな町だ。これからしばらくお世話になります。
学校に予約してもらっているホテルを探すのにちょっと手間取ったが、なんとかみつける。
Summerhill hotel という。朝食つき一週間で200ポンド弱というから一日6000円弱である。
玄関にいくと、女性が出てきて、居間?に案内してくれた。なんでも経営者の家族がきているので
一緒にお茶を飲みましょうということらしい。疲れているたので、ありがたくお茶をいただく。
さて、部屋に行ってみると。電話がない!
これはこまった!
これからどうやって「外国」と通信すればよいのか!
電話は、コイン式のもちろんモジュラージャックなんてついていない代物が、玄関を入ったところ
にあるだけらしい。部屋はといえば、シングルベッドのちょっと大きめの奴が一台あるが、それが
ほとんどを占めている。シャワーと便所が一緒になった狭い部屋?があるが、このシャワーがほと
んどお湯が期待できない。待てど暮らせど暖かくならず、なってたら髪をあらってとびださないと、
なにが起こるかわからない。
テレビはBBC1と2、あと民放?が二つで、サッカーなんてやってない!
シャンデリアも見晴らしも良いが...
こりゃ早々に退散しないと、こんな料金ではやってられない!
この夜は、ほんとうに疲れてしまってごろりと寝たらそのままだった。
しかし、もっといろんなことが、翌日に起こるのである。
翌朝、とりあえず雨はあがり、いくつかの綺麗な家々が見えた。
それでこそこの土地を選んだ甲斐があるというものである。
朝食におりてゆくと、ピーターと名乗る給仕さんがコーヒーを運んできてくれる。
メニューを眺めてもよくわからないが、English Traditional なる、いわゆる「英国の普通の朝食」
を頼むと、しばらくして、ベーコン、揚げパン、2つの目玉焼き、焼きトマトにちょっと炒めた
マッシュルーム(これは「きのこ」という意味でなく、日本で言うマッシュルームである)がひとつ
の皿に盛られてでてきた。
これは、ちょっと油っぽいが、昨日ほとんど食べずに寝たからか、わたしには非常に美味であった。
またしても英国式が美味という、世にも稀なる話の出現である。
(その後毎日これを食べているが、いまでも脂っこいが美味である)
朝食が終わると、どうも午後の天気予報がまた悪いので、早々に Plymouth に車を返しにいくこと
にする。昨日は、少々迷ったが、今日はするりと Plymouth への道に乗ることができた。
もう慣れたものである。
ただひとつ心配事が出た。国際免許証を忘れてきたのだ。事故や違反をすると問題がでる。
気をつけて運転しなければならない。
さて、 Plymouth につくと、これがなかなか込み入った町で、さっぱりレンタカーの営業所がわから
ない。まず、示された地図にある駅を探してうろうろしていると、やっと駅を見つけることができた。
ほっとして、駅のしたをくぐって進もうとすると、突然右から車がきて、クラクションを鳴らされて
しまった。
Roundabout になっていたのである。
慢心は恐ろしいもので、 Roundabout を見落としてしまったようだ。
しかし、慢心とはいうが、そこは鉄道の高架が上を通っている下に信号があって、その先が
Roundabout になっていて、そんなもん普通見落とすやろという危ないものだった。
そこを通り過ぎて、また営業所の道を探してうろうろするうち、またその駅をとおったとき、標識が
(Roundaboutの)でているかどうか確認したら、見にくいながらも確かにある。
これは初めてくる人には極めて危ない場所だと思った。しかし、少々慣れが入っていたことも間違い
ない。
それから、ちょっと運転がまた怖くなって、逆に判断ミスが多くなり、Roundabout をなんどもクル
クル廻ることになったりした。慎重になると、余計危ないこともあるのである。
さて、とても苦労して営業所をついに見つけた。
営業所の隣がガソリンスタンドと聞いていたので、ガソリンは高めであろうと想像していたら、ほん
とうに高めで、ついさっきみたところりリッター3ペンスも高い。1回やりすごして、安いところへ
行こうとしたが、道を探したりで疲れてきたので、反転して向かうことにする。
Mini Roundabout と呼ばれる、四つ角用のものを180度反転しようとしたら、後ろからきた車が急
ブレーキを踏んでとまる。ちゃんと右折のサインを出していたから、わたしは悪くないはずだが、
なにか釈然としない。
営業所の前のガソリンスタンドで、ガソリンを満タンにして返せば、この車とお別れである。
イギリスではほとんどセルフサービスと聞いていた。これは日本でも最近あちこちにあるから、問題
はない。給油口をあけて、フューエルキャプを...
ない!
フューエルキャップがないのである。
この給油がはじめてであるから、はじめからなかったか、途中でとられたことになる。
しかし、途中でとられた可能性はきわめて低い。なぜなら、引越しで、荷物を満載していたので、
車を離れるときにはなんどもロックを確認していたからである。
前夜は確かにホテルの前においていたが、これもロックを確認していたし、ほかにはどこにも行って
いない。
もちろん、荷物は何もとられていなかった。
とりあえずマンタンにして、ガソリンスタンドの人に車はどこに置いたらよいか聞き、その場所に
車を止めてから、契約書についてきたトラブルレポートを書き始めた。
この日は営業所が休みなので、キー返却口にキーを入れておくだけでよいといわれていたから、もち
ろん営業所は閉まっているし、誰もなかにはいないからである。
トラブルレポートには住所や電話番号を書く欄があるが、わたしは日本の住所も現在無いので、
ややこしいから「旅行中」として、メールアドレスを書く。
警察に届けたか?というのがある。
これは、こまった。
普通なら警察に届けるところだが、今日は免許不携帯である。
これも、「どうせ初めからなかったんやろ!」と、少々怒っていたので、「No」にチェックを入れる。
へたくそな英語で、このガソリンスタンドでキャップが無いことを見つけたことや、レシートと
走行距離を記して、この給油があきらかに最初のものであることなどを書いた。
ただ、なんかあればメールアドレスへメールをくれとかいたが、なんのことはないメールはしばらく見れ
ないのだから、「いま泊まってるホテルに電話がなくてメールの確認がしばらくできない」とも書く。
「たしかにこのとおりである」にサインをして、キーと一緒に営業所のキー返却口に放り込む。
あとは野となれ山となれである。
ほんとうにこの土地に歓迎されてないという印象を抱きながら、さっき危ない目にあった駅へと歩く。
Plymouth から Paignton へは直通の電車がない。いちど、Newton Abbot なる駅で乗り換えが必要である。
ここまではこちらに来る前にネットで確認していた。
切符は簡単に買えた。
クレジットカードがうまく読み込めないからと、旧式のスタンプマシンでカードを処理してくれたが、
「もしかして、さっきの営業所には人がいて、カードをとめたのかいな」なんて不安がよぎる。
Newton Abbot までは、このヴァージントレインで行く。ヴァージンといえば自分が乗ってきた飛行機が
この会社であるが、英国では列車も運行している。この列車はなんと北の端ともいえるスコットランドの
Edinburgh 行きである。この列車に乗るのは30分ほどなので、寝てしまうとえらいことになると思う。
左の格好良いディーゼル駆動の列車にのる。
この列車は指定席が普通らしいのだが、わたしの買った切符は指定席ではなかった。
そこで車掌さんらしい赤い服をきた女性に、どうすれば良いかきくと、後ろから2両目にのりなさいと
いう。車両のことは Coach という。この言葉は、なんといっても映画「駅馬車(Stage Coach)」で覚えた
ので、すぐに理解できた。ちなみに英国には StageCoach なるバス会社?がある。
ここからが少々面白かった。
いわれたとおりにBと書かれた2両目に乗る。まだ、なにを言われたかに自信がなかったので、13番と
いうこっちの人が嫌いそうな番号のいすに座った。
そこに荷物を背負った若い女性がやってきて、「どこに座ればよいか知ってる?」なんて聞いてきた。
わたしは、「サッキ、アカイフクノヒトニキイタラ、ココニスワレトイワレタ」なることを言ったら、
「ありがと」といって、ちょっと前のほうに座った。
あとからくる人も混乱しているようで、列車の外で中で、切符をみながらがやがやいってる。
そりゃ、普通に時間指定の切符を買って、指定席のように見えてかつ、どの車両が自由席か書いてなけれ
ば、誰だって混乱するだろう。
わたしは、その辺はこちらの人は「なにか」を知っているのだろうと、前の銀行の一件と同じく現地人を
信頼していたのだが、今回もその信頼は揺らいできた。
列車がガイドブックと違い、まったく秒も違わず出発したあとに、検札が廻ってくる。さっきの赤い服を
きた車掌さんのようだった。切符を差し出すと、切るのではなく刻印のようなものをつけてくれる。
何もいわれなかったので、さっきの英語の「解釈」は正しかったようだ。
しばらくして、女性の声で放送があった。
「みなさま、自由席はB車両でございます。切符を確認のうえ、お座りください」
みたいなことを言ってる。すこしの間をおいて、何人かがこの車両に移ってきた。
なんのことはない、多くの人がわけがわからず、間違って座っていたのである。
「信頼」は失望にはかわらず、ある意味「安心」へと変わった。
英語ができるからといって、それだけで英国で暮らせるわけじゃない。
やはり、ちょっとした「常識」を知っていることが必要なのである。
この場合の「常識」とは決して、「英国式列車の乗り方を知ってる」ということではない。
「指定席の切符をもっていなければ、自由席を探して乗らなければならない」ということだ。
雑学をかじっていても対応できる類のものではない。もっと社会的な話である。
「あたりまえだ」と、多くの人は思うだろう。
でも、こればかりは経験をしてみないとわからない感覚だろう。
こちらに暮らしていて、英語ができないということが、どれだけ負い目に感じることか!
なにを言ってもわかってもらえず、なにを聞いても良くわからない。
こちらがばか者であると思うようになっても、全然不思議ではないとおもう。
それをちょっと忘れさせてくれる瞬間が、こういった「些細」な出来事なのである。
列車は、Newton Abbot に滑り込み、この前覚えたばかりの「開く」ボタンを押して外にでる。
今度のる電車までしばらく時間があったので、うろうろしているとこんな広告が出ていた。
電車の時刻を守るためにご協力をお願いしますという、
電鉄各社連名の広告である。
列車の通常運行についてかくかくの努力をしていると
いう話の後に、
「1分前までには列車に乗っていてください」
などのお願いがならんでいる。
いままで英国でのった電車はすべて時間通りだった。
こういった努力の結果が現れたのではないだろうか?
と、良いように解釈をしてあげることにしよう。
右のディーゼルカーに乗り込んで、Paignton へと
向かう。あと駅は3つである。
さっきから怪しかった雲行きが、そろそろ本格的に
なってきた。雨が降ってきたのだ。
Paignton に到着すると、土砂降りになっていた。
風も強いので傘がさせない。
また、なお「悪い」ことに、この南の海岸ではそれほど寒くなく、例のダッフルコートなど、
着ようとは思えない状況であるから、今日は軽いジャンパーだけである。
駅前にケンタッキーを見つけたので、雨宿りがてらに昼飯を食べることにする。
Colonel's Meal という2.99ポンドのおなじみを頼むと、なぜか3ポンドを超えた額を
いわれる。指をさして、「アレ、ころねるみーる!」といっても、なにやら飲み物がついた
ら高くなるのとかいってる。そのうちになにやらいわれて、2.99を請求されたので、
やっとわかってもらったと思い受け取ると、飲み物がついていない。
こんなとき、わたしは意気地なしで、あきらめることにしている。
なにが言いたかったか確認したいというのもある。
飲み物の代わりに白い包みが付いていた。
明けてみると、それは「とうもろこし(コーン)」だった。
あるのかどうかしらないが、わたしは「コーンミール」をオーダーしたことになっていた
ようである。
白い包みを開けると、なかから汁が飛び出してGパンにしこたまかかる。幸いあまり熱く
なかったが、汚れてしまった。
食べ終わって外を見ると、さっきの雨は勢いを増している。
もうこうなったら強行突破だ!
ホテルまで適当にめぼしをつけて、横殴りの雨のなかを歩いていった。
ずぶぬれになってホテルにたどり着くと、すぐシャワーを...
このシャワーが先も書いたとおり、なかなか熱くならず勢いもない。怒鳴りつけたくなる。
しばらくまってしょぼしょぼ出てきたお湯を浴びて、まだ夕方というのにベッドにもぐり
込む。「うどん食って寝ちゃえ」の世界だ。
この日ばかりは、次々と変なことが起こったので、ほんとうに先行きが心配になってしまった。
この先、ちゃんとやっていけるのだろうか?
神様は、ここはやめとけといってるのではないだろうか?
しかし、思えば、カナダのマグダの家でも、初日に便所の水があふれてえらい目にあった。
今度もきっとそんなちょうしなのだろうと思って、翌日から始まる学校を楽しみに、そのまま
眠ることにする。
ネットがなんとかつながらないかと考えながら。
(さて、この文章は、いつアップできたのでしょうか?)
後記: ホテルの主人にたのんで2月4日につながせてもらいました。
この日は、ほんとうにいろいろなことがあって、楽しい日でした。
フューエルキャップの件は、まだ何も言ってきてないようです。
大丈夫かいな...
2004年2月2日から2月4日まで
わりと良いところのようである。
前回と今回は、話のトーンがほぼ反対なので、少々驚かれるかもしれない。
しかし、住めば都などという言葉もあって、なかなか楽しいこともでてくるものだ。
夢は持っておくべきだと、前に書いた。
わたしはなぜ、Paignton にやってきたのか?
それは、前に書いたと思うが、ミス・マープルが住んだとされる土地に来てみたかったのだ。
そして、この地域はアガサ・クリスティーが生まれ育った土地であり、彼女がいくつかの作品を
執筆したところでもあるらしい。だから、やってきたのである。
今回わたしが選らんが小さな語学学校には、 English Culture という変わったコースがあった。
クリスティーゆかりの土地、そのコース、観光地といったことがこの学校にした理由だった。
学校にいくと、思ったより以上に小さな学校だった。300人も通うというから、一杯人がいる
ものだと思っていたが閑散としている。案内してくれた Declan いわく、いまは暇なシーズンら
しい。夏になると小さな「アダルトラウンジ」といわれている部屋が、狂気のような騒ぎになる
といっている。
簡単なテストを受けて、教室がきまる。いってみると、生徒は5人いてわたし以外みな女性であ
る。構成人員からいくと、男のほうが多く見かけるのに、なぜかこの教室はそんな状況だった。
台湾2人、韓国、イタリア、そして私である。
Jill 先生は、とても親切そうな初老の女性である。授業そのものは、一般コースということで、
あまり大変ではない。これがケンブリッジ検定のコースなどになると、かなり忙しいらしいが。
そして、午後が English Culture なるコースである。
これが思っていた以上にヒットだった。
さっき出てきた、ことし60歳というアイルランド人の Declan によると、なんとこのコースで
わたしが初めての受講生だという。「お前は歴史に名前を刻まれる!」なんて言ってる。
なんでも、今度初めて作ったコースらしく、それに見事釣られたというわけだ。
そして、この週ではわたしだけがその受講生である。
もともとこのコースは、大人の受講生向けにオプションとして準備させている催しを、多少安く
受講できるというものだったみたいで、「ちょっとやられたかな?」と思っていた。
しかし、初めてとあってか、彼はいろいろわたしに気を遣ってくれるのである。
初日の Paignton 案内ツアーは、すべての人が無料参加できるものだったので、特にこれといった
ことはなかった。シンガーミシンの創始者の家があり、この町に大変な貢献をしたといっている。
翌日は、 Totnes なる村にでかけて、古い教会などを案内してもらった。
Declan は、アイルランド人である。アイルランド人といえばIRAみたいなイメージがあるが、
実際接するアイルランド人の人は冗談が多く、とても楽しい人々だ。アイルランド人に英国の文化
を習うというのも変な話で、事実彼は、「時間があったらアイルランドにいってみろ」なんて言って
いる。しかし、実に楽しい先生?なのである。
この古い教会では、英国の歴史を説明してくれる一方で、エリザベス女王がここに来たとき、トイレ
がなくて、隣のパブだったかホテルだったかにトイレを借りにいき、「トイレ」という言葉がいえな
くて困った(施設を使わせてくださいみたいな言い方をするといったように思う)なんて話をして
くれる。
さて、学校に詳細を問い合わせるときに出したメールに、「ミス・マープルに興味がある」と書いて
出していた。彼はそれを読んだのか、水曜日に「お前を特別にクリスティーの関連に連れて行って
やる」という。もちろん喜んでついていった。
まず行ったのが、隣町 Torquay にある Torre Abbey Historic House & Gallery である。
ここは、古い教会とスペインとの戦いでの牢獄があったりするところであるが、クリスティーが
執筆したいう部屋があるとのことだ。
この日は閉館していたのだが、彼が「このコースをスタートしたから、今後もっと一杯つれてくる」
などと言っておいたらしく、特別に開けてもらったようである。クリスティーの部屋だけといって、
無料で入れてもらった。
クリスティーの部屋は、日本で言えば6畳ほどの小さな部屋で、年代もののタイプライターが置いて
あった。感謝の意味で、写真は Declan が必ず入るように撮った...三枚撮った...
その日の英語の授業で、「写真を撮ってはいけないところ」の話をして、美術館のなにのといって
いたものだ。大英博物館は多分写真がだめだったとおもうが、撮っている日本人がいて、非常に不快
になったりしたものでもある。
Declan が気づいた。「ここ、写真禁止や!(彼も大阪弁が似合いそうなおっちゃんである)」
監視カメラもある!(だから、ここでは写真を載せません。もうしわけありません。)
こそこそと退散して、入り口に行くと、なんとまるで防衛庁かのように監視テレビが何台もならび、
おそらく我々のやっていたことは全部お見通しだったのである。
彼がさんざんわたしを「クリスティー好きである」と宣伝していたので、わたしも「みす・まーぷる
ガスキアル」なんていっていたら、「何がし兄弟は好き?」なんてきかれたので、「チラナイ」と
いったら、あからさまに失望したような顔をされた。写真は撮るはで、これは間違いなく「偽者」と
思われたに違いない。そりゃそうで、わたしは確かにミス・マープルに関しては全部読んだし、いく
つかの作品は何度も読んだ。彼女のミステリーは、刑事コロンボと同じで謎解きよりも、展開がおも
しろい場合が多いのから、なんどでも読めるし、ミス・マープルに関しては、それぞれの話に生活上
のつながりがあって、隣人、医者、おいなどがみな同じキャラクターで登場するので、大河小説を
読むのと同じなのである。
だからといって、ポワロはほとんど読んでないし、他のももちろん全部読んだわけじゃない。
何がし兄弟といわれてもわかるはずもない。
しかし、このクリスティーの部屋に入ったとき、やはり非常に大きな感動をしたのも事実である。
彼に、「わたしが Paignton という名前を見て、ミス・マープルが登場する「パディントン発4時
50分」に出てくる町だ」と勘違いしたのが、学校を見つけたきっかけ」なんて話を一生懸命説明
したら、わかってくれたようである。パディントンは、ロンドンにある駅の名前である。
クリスティーの部屋で、その本を見つけたとき、なんともいえない気分になった。
またひとつ、「いってみたい」と思ったところに、やってこれたという満足感で一杯であった。
このあと、Declan は Torquay Museum に連れて行ってくれ、やはりクリスティー関連の展示を見せ
てくれたあと、駅の近くの彼女の彫像を見て、その日の勉強は終わりとなった。
彼にはほんとうに感謝したい。
さて、英国では教会を売りに出しているなんて話を書いたと思う。
以下の2例はいずれも「教会だった」ものである。右側のは「売り家」サインが出ているので、よく
わかると思う。そして、左のはたしかビリヤード場だといったように思うが、教会でないのは間違い
ない。
古いものを大事にするというかなんというか、教会に住んだり、遊んだりするのはするのはちょっと
抵抗があるほうが普通じゃないかいなと思った次第である。
この日は特別に多くの「授業」があった。Declan と別れたあと、別のアイルランド人である David
が、ピアノの演奏がすばらしいというパブに連れて行ってくれる。これはノーマルな「課外活動」な
ので、ほかの予約した生徒(有料)も一緒だ。わたしの場合は込みこみである。
パブに到着すると、古いピアノの音が聞こえてきた。
ちなみにこのパブも、クリスティーが晩年よくお茶を飲みに来たという場所だ。
薄暗い空間に入った瞬間から、まったく映画の世界に迷い込んだような気分になる。
ピアノとともに、パブに集った人々が静かに歌を歌っている。
バーの周りでは明らかに酔っ払いといった表情をしたひとが、一生懸命オーダーをしている。
これこそ英国やな、などと思いながら、わたしはギネス(アイルランドの黒ビール)を飲んでいた。
いくつかの歌は知っていた。わたしも参加したかったが、歌詞がわからないので歌えない。
しかしアニー・ローリーからジョン・レノンやプレスリーまで登場して、楽しい雰囲気である。
誰かが誕生日のようで、2回「ハッピーバースディ」が流れる。これは名前の部分以外歌う。
そこにドイツから来ている同じ学校仲間のレインハルトが、 Over the Rainbow をリクエストした。
ピアノの女性が静かに弾き始めると、やはりみんな歌い始めた。
わたしには、英国でしてみたいことがあった。
それは、英国の人と「希望と栄光の国(Land of Hope and Glory)」を歌うことである。
これは、ウエストミンスター寺院のときに書いた、エルガーの「威風堂々第1番」のさびを使った、
「戴冠式頌歌」を縮めたもので、英国の第二の国歌のように歌われているらしい。
夏に行われるプロムス音楽祭で、かならず「威風堂々第一番」が演奏され、さびになると観衆が合唱
をはじめ、指揮者によっては、曲が終わったあとに、「右側の人たちの歌がいまいちだったから、
もういっぺんやろう」なんて言って、なんども合唱させるといったこともある曲だ。
数年前に亡くなった義理の伯父は、クラシック音楽が大好きで、よく話をしたものであるが、この
音楽祭と「希望と栄光の国」を歌うイベントも、その伯父から教えてもらったものである。
伯父は、「イギリスにはこんな歌があってええな」と、音楽祭のビデオを見ながら言っていた。
わたしもその歌詞付きのバージョンをたまたま知っており、良く聴いていたので、伯父の言葉を
きっかけに歌詞を探し、覚えていたのである。
そして、おそらくわたしが唯一最後まで覚えている英語の歌詞の歌でもあるのだ。
さて、なにが起こったか大体お察しがつくことだろう。
わたしは、ピアノの女性のところへいって、「キボウトエイコウノクニヲヤッテ!」と言った。
彼女は意外そうな顔をして、「これでいいの?」といいながら弾き始めた。
すると、その場にいた人たちが静かに歌い始めた。思ったとおりのことが起こったのである。
わたしは飲んでいたせいもあって、立ったまま皆と一緒に歌い始めた。声が少しずつ大きくなった。
音程にも発音にもまったく自信はないが、大声と声のとおりには少々自信がある。
曲はだんだん盛り上がり、わたしは身振り手振りを交えて、この素晴らしい歌を歌いつづけた。
皆も変な奴が突然現れて不思議におもったか、多くの人がわたしのほうを見ながら歌っている。
いまや伴奏となった彼女は、曲の最後のテンポを遅くして、盛り上げてくれた。
曲が終わると拍手喝さいであった。
頭を何回かさげて、自分のもといた席に逃げ帰ったが、どこから来たか、名前は何じゃとか聞かれて、
とりあえず答え、彼女が「日本から来たダイスケでした!ありがとう!」なんて紹介してくれたので、
また頭を下げる。
周りの人にも何人かに「ありがとう」といわれた。もっと歌えなんていわれたが、なにしろそれしか
しらないのでどうしようもない。あとは、ギネスをすするだけである。
しばらくして、パブはお開きになった。ピアノとみんなは「帰りましょう」なんて歌を歌っている。
わたしは、帰るときピアノの女性に
「アリガト。アノキョクヲいぎりすデ キク ノガ、ユメダッタノヨ」
と、お礼をいう。わたしはわたしで何人かの人に、「ありがとう」といわれながらパブをでた。
ミニバスで送ってもらってホテルに着いた。
その晩、静かに亡くなった伯父を思い出し、感謝した。
伯父がもし生きていて、この出来事を聞いたら、さぞ喜んでくれたに違いない。
もしかしたら、あの時一緒に歌っていたのではないだろうか?
などと考えながら、眠りについたのである。
夢は、多く持っていたほうが良い。小さな夢、大きな夢、何でも良いと思う。
夢を見つけるためには、いろいろな材料も必要だ。
いろいろな人に出会い、話を聞き、本を読み、テレビを見、想像を膨らませ、そして夢となる。
今日、わたしは小さな夢が二つ叶った。
明日からまた、補充をしなければならない。
(次回は、家を探すの巻といった感じだと思います。)
2004年2月5日から2月14日まで
学校生活について書いてみる。
わたしが English Culture というコースをとっていることは、前回書いた。
学校名を書いていなかったので、ここに書いておこう。
Torbay Language Centre という。
詳しくは、上記のリンクをクリックしていただければホームページに飛ぶのでごらんいただけばと思う。
もともとドイツに関連があるらしく、ドイツ人が非常に多い。あと、チェコからも定期的に人が来てい
るようだ。場所は、イギリスの南西の海岸にある、Paignton という小さな町にある。
午前中は8時30分から、12時まで間30分の休憩を挟んで3時間の授業がある。
午後は、14時まで授業がある人がいるので、エクスカーションと呼ばれるお楽しみは、14時15分
からである。わたしの場合は、12時に授業が終わると、TESCOというスーパーにいって、サラダ
などを買い込み部屋(まだホテル暮らしをしてます)に帰り昼飯としたあと、14時ごろにまた学校に
舞い戻って、エクスカーションに出かけるという毎日である。
午後の授業には、ONE to ONE なる一対一の授業がオプション料金で準備されている。わたしの場合、
時にはエクスカーションの案内をしている、Declan親父やDavidと二人きりのことがあるから、そんな時
は、もっとも安い ONE to ONEの授業を受けているようなものである。
晩飯は経費節減のため、TESCOで軽いものを買ってきて食べることが多かったが、知り合いが増え
てくると、英国らしいはなしとしてパブへ出かけて食べることも多くなった。
日本人といえば、これまたラッキーというかなんというか、わたしともう一人偶然にも前住んでいた
府中市から来ておられる画家の女性(既婚)と二人だけであり、彼女はまったく別のコースをとって
いるので、昼時に話をするくらいだ。つまり、日本語を話すのは彼女との数分と、独り言くらいという
勉強にはもってこいの環境といえる。
授業そのものは、7レベルあるうちの4番目というカナダと変わらないコースを取っている。この2週間
では、はじめ5人でいま6人が同じ部屋で授業を受ける。なかなか楽しい授業なのだが、設備は20年は
たってるだろうといった感じのものを使っていて、いつも仲間の話題となっている。
少なくとも、カナダの公立カレッジのESLとくらべれば格段に劣る内容で、英国らしくコストは非常に
高いのだが、前にも書いたとおり English Culture なるコースのおかげで、とても毎日楽しい日々を
おくらせてもらっているといった感じだ。なんでも夏になると生徒がめちゃくちゃ増えるらしいので、
時期をみて独学に変えようかなとも思っている。アロマテラピーの独習書をしこたま持ってきていて、
引越しのたびに重たい思いをしていることもある。
いまの仲間といえば、ドイツ人のギュンター氏、チェコ人のブラスティミル氏、それから今日帰ってし
まったが、ドイツ人のマイケル君などである。彼らはなんとわたしより英語ができないので、いつも英語
を教えてあげているという、自分でも想像すらできなかったような環境だ。彼らは同じホテルに滞在して
いるので、いつの間にやらパブなどに出かける仲間となっていた。プラスティックや紙でできた車として
有名な、「トラバント」の話をすれば、「持っていた」なんて人々と、毎日暮らしているというのは、な
んとも不思議な感じがする。ちなみに、彼らは本国ではかなり良い仕事をしているらしい。
もと東ドイツのドレスデン近郊からきていたレインハルト氏には、いまと昔の暮らしについて聞いてみた
が、やはりいまのほうがなんでも手に入ってよいという。彼はソニーのわりと新しい型のデジカメを持っ
ていた。今日、一緒に出かけた面々といえば、ドイツ人の女性が二人にホーガンさんという男性一人。
チェコからブラスティミルと、またチェコ人で同じクラスのデグマーさん。ポーランドからジャイアント
馬場なみにでかいクリスと年配の女性が一人。イタリア人で同じクラスのラウラ、いつも笑っているスイ
ス人のマニュエラ、そしてわたしであった。
なんとアジアからはわたしだけである。学校には台湾から数人と韓国などからもきているのだが、彼ら
はなぜかエクスカーションには参加しない。パブには顔を出しているようである。
カナダにいたときは、自分がまったく英語ができないということもあって、課外といえば日本人といる
ことが多かった。こちらでは、ずっと英語じゃないと仕方がないばかりか、一緒にいく仲間によっては、
先にも書いたとおり、わたしが一番できる奴だったりするので、オーダーを頼みにいったりするわけで、
本質的には Milton Keynes の時と何も変わってないわけであるから、冷や汗をかきかきピザやポテトを
オーダーにいったりしている。ちなみに英語でも冷や汗は、 Cold Sweat という。(昨日ならった)
パブの中はこんな感じである。もちろん店によって違う。
ちなみに右下の暗い店は、わたしが歌を歌う?店である。
前回書いた歌を、また今週歌ってしまった。
なんと、店にいったら、何人ものひとがわたしのことを覚えていて、「今日も歌え!」などと声をかけ
られたり目くばせをされたりしているうちに、ピアノの女性に呼ばれて、今度はちゃんと初めからその
つもりの人たちの前で歌った。それどころか、「もっとやれ!」といわれて興にのってしまい、少々後に
そう言えばもう一曲覚えている「聖者の行進」をお願いし、ルイ・アームストロングの物まねでやった。
この物まねは、外人さんには前からウケる。予想通りというかなんというか、これも大喝采であった。
聴衆の一人はわざわざわたしの座っているところに握手を求めにやってきて、「お前はだれそれみたい
だから、なにがしかの歌を練習してきて歌え」なんて言われた。この話は、いまだに良くわからないし、
なにしろ一緒に行っている仲間もわたしと似たりよったりの英語力であるから、誰のなになのかいまだに
わからない。ちなみにその人の話を聴いていた人が、かれの言う歌を歌ってくれたが残念ながら知らない
歌だった。来週のエクスカーションでも行くことになったので、今度は「このすばらしい世界」を準備し
ていこうと思う。「歌え!」といわれなかったら、少々さびしいが、やめておくとしよう。
なにしろこちとらお客さんなのだから、現地のひとの邪魔をしてはいけない。
さて、このエクスカーションで訪ねたところをピックアップして、のせておこうと思う。
エリザベス女王とフィリップ殿下が最初に出会ったとされる、英国王立海軍学校(正式な名前はしらな
いが、そんな名前を聞いた)と、その町 Dartmouth である。ここは、お金持ちの住むところらしい。
手前に見えている駅は、対岸の村 Kingswear にある。
いまは、春から秋にかけて運行するとされる蒸気機関車の駅であるが、その昔この駅舎は、対岸の
Dartmouth にあった。つまり Dartmouth 駅だったのだ。
案内の人々は、「英国で唯一、汽車の止まったことがない駅であった」という。
いま、対岸の駅舎はレストランになっている。
この蒸気機関車に乗るのが、いまから楽しみだ。
ちなみにこの Kingswear の川岸を上っていくと、アガサ・クリスティー邸があるという。
Greenway House と呼ばれる家には、彼女の娘さんが住んでおられ、もしお亡くなりになった場合は、
公共の施設として提供されることになっているという。
続いては、ノルマンディー上陸作戦の時に、上陸の演習場として使われたとされる Southham の海岸
と、記念においてあるというシャーマン戦車である。
この日は、スイス人のマニュエラちゃん以外は、ドイツ人軍団とわたしだけだったので、このいわれ
を聴きながらなんとも複雑な気分になった。平和というのは良いものである。
だからジョージ・ブッシュがいよいよ嫌いになった。
あの男は、世界中から嫌われているのではないか?
わたしがそんな話を切り出すからかもしれないが、しかし、ブッシュのことを話すほとんどの人が、
はっきりと Hate (嫌い)という言葉を使う。中には、ブッシュよりもブレアのほうが罪が重いという
人もいて面白い。なぜならブッシュはバカで、操られているだけだから許せるが、ブレアはバカでは
ないから罪が重いという。
こんな意見が渦巻くなかで、「国際的な貢献」などといって軍隊を送り出すどこぞの国の首相なんぞ、
だれもしらないし評価もしてもらえない。しかも、軍隊を出したことはみな知っていて、「おろかだ」
といっているのである。
ここに書いておきたいことがある。
それは、日本人が「外国」とか「世界」とか言う場合、アメリカのことしか考えてないのではないか?
ということである。
アメリカ大陸に住んでいたとき、タバコは世界から消え去るのではないかとおもっていた。
現実日本でも「世界」にみならってか、タバコ人口は女性を除いて確実に減っているらしい。
ところが、英国にきてみて驚いた。
英国ではどえらい高いというタバコを、多くの人がぷかぷか吸っている。
一生懸命禁煙キャンペーンをテレビではやっているのに、どこ吹く風だ。
高いからといって、自分で紙を巻くタイプのタバコをくるくる巻いて吸っている。
ドイツ人に聞けば、ドイツでは、もしかしたらタバコを吸う人は増えているかもしれないという。
確かにドイツ人には、タバコを吸う人が非常に多い。先に書いたギュンターさんも、マイケルも、
そしてもう帰国したが、非常に綺麗であったカタリナさんも喫煙者だった。
車検だってそうだ。
ドイツでも英国でも車検らしきものがあるという。車検のないアメリカ大陸が、むしろかわっている
のかもしれない。
日本では「春名さん」だが、西洋では「ダイスケ」だという話だって怪しい。
アメリカ大陸では、たしかに一度紹介されたら「ダイスケ」が正しい呼び方となった。
しかし英国では、最近まで「Mr.Haruna」の期間が長かったというし、チェコでは今でも社会の中では
ファーストネームで呼ばないという。チェコのダグマーさんは、「ブラスティミルというのは、わたし
には呼びにくい」なんていっている。日本と同じなのだ。会社でいきなり「ダイスケ!」なんて呼ばれ
たらびっくりするのは、チェコの人も同じなのである。
バッハがバックだという話もアメリカ大陸での話しだと書いた。
ここまで書いた話は、わたしだけが勝手にもっている世界観なのかもしれない。
しかし、ヨーロッパにいると、たしかにいろんな国の人がいて、いろんな言葉をしゃべり、いろいろ
な文化をもって生きているのだということが良くわかる。
「日本人はいつも群れている」なんていうが、ドイツ人だっていつも群れている。
多くのアメリカ人だって、英語の通じないところにいけば群れるのではないのだろうか?
逆のことを書けば、英国人と紅茶なんて話もそうである。
カナダのホストマザーであるマグダはスコットランド人であり、彼女の友達でわたしともよく一緒に
いろいろなことをしたケネディーもスコットランド人だった。
彼らがコーヒーを飲んでいるのを一度も見たことがない。
いつもミルクが用意されていて、ミルクティーを飲んでいた。
エンプレスホテルにいけば、英国調バリバリといった感じの給仕さんに、アフタヌーンティーを
持ってきてもらえた。それが英国の文化だと思い込んでいた。
ところが、今回の英国滞在中に、酒以外のものを飲むというとき紅茶をオーダーする英国人をあま
りみたことがないのだ。オーダーするのは外国人である。わたしの知っている英国人は、みなコー
ヒーを飲む。これは、スターバックスが持ち込んだ文化なのだろうか?ここ数年で変わったのか?
お茶を楽しんでいる人はいまでもいるのか?家庭ではどうか?スコットランドでは?
たしかにこの地方であるデボンでは、「クリームティー」なる「紅茶、スコーン2ケ、ジャム、
特性クリーム」をセットにして食べる「料理」があるにはあり、なかなかおいしいのではあるが。
ともかく、聞きかじり、地域、期間限定の情報が、いかに使えないものかというのが良くわかる。
(もちろん、この「英国人はコーヒー好き」をはじめ先にあげたいろいろな情報も、同じような
使えない情報となるが、ここでは先入観の否定という意味で使わせていただいている。)
そしてまた同じように、アメリカの常識は決して世界の常識じゃないのである。
アメリカでは尺貫法みたいなことを今でもやってるではないか?
距離はヤードにマイル。ガソリンはガロンで、重さはポンド。
それひとつとってみても、アメリカは決して国際標準ではない。
日本が生きていくために、アメリカとつるむのはわからないでもない。
しかし、もっと開いた目で世界を見る習慣もつけておかないと、今度の派兵のようなバカをやる。
ヨーロッパ滞在わずかに二月であるが、多くのことを勉強させてもらっている。
今日行った北コーンウォールの海岸で、わたしは仲間に叫んでよいかと断ってから、アメリカに
向かって叫んだ。
「Hello Geroge Bush! I hate you!(まいど!ブッシュさん。わしはあんたが嫌いや!)」
ドイツ人のインゲは「Me, too」とつぶやいた。
しかし、地図で確認すると、その方向にはアメリカはなく、むしろカナダやグリーンランドである。
カナダの皆さん、ショウもない名前を聞かせてごめんなさい...
話を戻そう。
したの島 Burgh Island は、やはりアガサ・クリスティーで有名な島である。
このホテルで執筆したとか、島そのものが作品の映画のロケに使われたとかいうような話を聞いた
が、正確なところはやはりわたしの耳に自信がないのでお許しいただきたい。
ここでは、楽しい出来事があった。
この島は干潮のときに陸とつながる。満潮時でも、写真にある背の高い車で渡れるという。
ちなみにこのホテルは大変有名であり、観光や、コーヒーを飲むために立ち寄るといったことが
できないという。泊まり客のみが中に入ることができる。
島に渡って皆と写真を撮りあったりしていると、
すでにほんとうの島になりつつあった。
車のオーダーの仕方を知らないわたしたちは、靴を脱ぎ、ズボンをたくし上げて強行突破したの
である。エエとしのおっさんや、淑女がどたばたと走るさまはおもしろかったらしく、何人かの
人に大笑いされた挙句、子供には「なんであの車を使わないの?」みたいなことを言われる。
学校の車で待っていた案内のクリスに聞けば、近くにドライバーがいて、頼めば出してくれるが、
60ペンスくらいを払わなければならないみたいなことをいっている。
ドイツ人のインゴがいった。
「知ってたけど、こりゃ写真に丁度いいと思ってやったのさ」
ほんまかいな?
さて、最後にこの出来事の原因である満干について書いておこう。
このあたりの潮位差は、5、6mほどにも達するという。そのため、下のようなことになる。
ここは Paignton から数キロのところにある Brixham の港だ。
惜しいことに撮りのがしてしてしまったのだが、右の写真の隠れた部分で船の修理をしていた。
左のヨットのように干潮で着底した船の底に作業員が行って、溶接作業をしていたのである。
つまり、天然のドッグとなっているわけだ。
簡単な修理ならたしかにそれでOKである。
それにしても、スクリューも舵もむき出しにした船が、そこらじゅうにあるというのは壮観だった。
ほかにもいろいろなところを訪ね、いろいろな話を聞いている。
たとえば、英国の町の名前には ham が付くのが多いけれど、それはアングロサクソンの古い言葉で、
farm つまり農場をあらわすのだとか、DartmouthというのはDart川の河口の意味だとか、興味津々の
内容である。この次また紹介させていただくとしよう。
まだ家はみつからず、ホームスティをアレンジしてもらおうかと考えつつある。
(というわけで、次回も同じような調子だとおもいますが、お許しを!)
2004年2月15日から2月22日まで
何事もないような一週間が過ぎる。
いまだにエクスカーションには出かけているし、家も探していて、次回はどうも新居を紹介できそう
な按配にはなっているが、最近少しばかり慣れが入ってきて面白さが減ってきたともいえる。
今週もChurston Court Innに出かけて歌った。
興味のある方は、上をクリックしていただければ、ホームページに飛ぶと思う。パンフレットに載っ
ていたものをそのまま入れておく。
今週は、もはや有名人であり、ドライバーの David に、「もはや歌を歌うのは義務である」なんて
言われながら、ピアノの前に連れて行かれたので、先週に書いた予定通り What a Wonderful World
をサッチモ(ルイ・アームストロング)調にやることにする。
簡単な英語の歌詞なのだが、わたしには覚えられないので、歌詞を書いた紙をもっていっていた。
「キョウハ、カゼヲヒイテイテ「コンナコエ(だみ声で)」シカダセマセン」
なんて冗談をいって笑いをとってから、ピアノの女性である Pam にお願いして、紙を見ながら歌う。
彼女はほんとうにすばらしいピアノ奏者だ。知っている曲なら、なんでもござれで弾いてくれる。
この歌ばかりは大声で歌う歌ではないので、だみ声に少々の抑揚をつけながら歌った。
マイクがあるわけでもないからムツカシイ。それに、英語の発音は、町で使ってさっぱりのところを
みれば、この歌も何のことをいっているのかわからんのだろうが、そんなことを気にしていたら歌な
んて歌えるはずもない。高級なカラオケの気分だった。
静かに曲が終わると、なんとアンコールがかかってしまった。
「ワンスモア!」
なんて何人かから言われるから、いつものとおり調子にのって、もう一枚持っていた Hello Dolly!
を、やはりサッチモ調にやる。ところが、こっちのほうは歌いなれていないのと、歌詞がちょっとだ
けややこしいので、途中で歌詞がわからなくなってしまった。
ありがたいことにこの歌は、さっきの歌と違ってアップテンポの曲である。
とりあえず一節を歌ったあと歌うのをやめ、身振り手振りで指揮を始めると、みんな大きな声で歌い
はじめた。
うまくいった!
最後のところだけ歌って、無事終わらせることができた。われながらなかなかやる。
この夜は、このあとしばらくたってから、
「今日は「聖者の行進」をやってないじゃないか!」
なんていわれて歌い、そして英国の第二の国歌にもリクエストがかかり、結局4曲も歌って帰ってきた。
この日を最後に Pam は、2週間の休暇に入る。わたしの歌もしばらく休暇である。
後日、ドイツ人のアンと、今わたしは仕事をやめていて日本に帰れば仕事を探さないといけないという
話をしていたら、「芸人になればいいじゃない。」と、真顔で言われてしまった。
「イギリスのパブで歌ってました」とでも言えば、だれか雇ってくれるだろうか?
さて、今日の話題はまたしても文化についてである。
イギリスに来てほんとうに良かったと思うのは、本当にいろんな国の人がきていることだ。
ラトビアからきている、ドミトリーとビクトルと一緒に、ステンカラージンを歌ったりできるし、ラウラ
に「帰れソレントへ」の解説をしてもらったりできる。ポーランド人の非常に親切な巨人であるクリスと
「森へいきましょう」(ポーランド民謡である)を歌っても面白くもなんともないが...
歌のことを書こうと思ったのではなかった。今回は時間と物事の楽しみ方の話である。
学校のミニバスのドライバーの一人である David は、どこかに出かけて自由行動の説明をし、集合時間
の説明をするとき、
「ドイツの時間で10時だぞ!イタリアやスペインの時間じゃないぞ!」
と、必ず言う。
本人はいつもタバコを悠然とくゆらせ、集合時間に遅れてやってきて、「わしはアイリッシュ時間である」
と言っているが、それは今回の話にはあまり関係ない。
この土曜日に、グレートブリテン島の南西の端にあたる、 Land's end にでかけてきた。
下の写真は、行きがけにある St Michaels Mount であり、引き潮の場合徒歩で渡れるといった場所である。
週末のエクスカーションは一日がけのスケジュールとなる。現地でも自由行動が多く、生徒はガイドなし
に海岸線を歩き回って、集合時間に言われた場所に集まるというようなパターンをいくつかこなしながら
一日が過ぎる。特に海岸線の場合、ほとんどハイキングといった按配になる。一本道の海岸線を2時間も
歩くような場合もあるのだ。
えらそうな話であるが、わたしはこの手のハイキングの場合、一番後ろを歩いて格好だけでも他の人の
フォローの役目をすることにしている。太ってはいるが、歩くことなどのスタミナにはほんの少し自信
があることは、Milton Keynes 編でも書いたのでご理解いただけると思う。
Land's end でも集合時間の決まったハイキングがあった。1時間弱ほどの道を歩いて、Land's end その
ものにある駐車場に集合というわけである。
はじめは、みなでぞろぞろと歩いていたのだが、しばらくすると右のようになってしまった。
みなでいっしょに歩きなさいといわれていてもである。
この連中には、スペインから二人、イタリアから一人の女性が含まれている。
三人ともラテン系らしく非常にチャーミングで、それはそれですばらしいのだが、三人ともラテン系なの
である。
なにを言っているのか?
時間というものに対する概念が非常に希薄なのだ!まさに、「イタリア時間じゃないぞ!」なのである。
聞いたり読んだりはしていたが、自分が勝手に最後を歩いて、集団の締めをしているつもりの役目をやって
いると、とても困ることになるのである。
「あら、綺麗だわ!写真をとりましょう!」
「なんてすばらしい風景なんでしょう!」
なんて按配に好き勝手やっているので、前を歩くドイツ・チェコ軍団には完全に取り残されてしまった。
わたしは困りはて、
「前の人が待ってるから、急ごう!」(英語の人以外に話しているときはカタカナではないのである...)
などと促すのだが、それを言っている本人に向かって、
「あなたも写真に入ってよ!」
といったことになる。
もちろん、しぶしぶながら写真におさまる。
このラテン系軍団には一人孤高のドイツ人マーカス君が混じっていた。
彼はドイツ時間のはずなのに、下の座礁船を見つけて一変してしまった。
どうもドイツの船らしく、彼はなにを思ったか、まったく動かなくなったばかりか、危険といわれていくな
といわれた岸壁の端まで行って眺め始め動こうとしない。
この日はかなりの風が吹いていたので、「監督」としては気が気ではなくなった。
「この後も行くところがあるんやから、急がないと!それから、岸壁には近寄るなっていわれたやろ!」
わたしは悪者に徹することにした。
ありがたいことにイタリヤのかわいいルイサちゃんに取り付いているドイツ人の若者であるウルマ君も、
時間を気にし始めて急ぎ始めてくれたので、この部隊もようやく岬に向かって進み始めたのである。
色気よりも「ドイツ時間」が勝ったようだ。
しかし、このややこしい連中の後ろを歩きながら考え始めた。
わたしは「ほんとうに悪者」ではないのか?と。
こんなところに来る機会はほんとうに少ない。もしかしたら、一生で最後かもしれない。
それならば、その一瞬を精一杯楽しむという行動は、間違っているのだろうか?
わたしは勝手に監督をして、彼らの一瞬を奪っているだけなのではないだろうか?
いくらなんでも1時間も遅れるということはないのだろう。わたしは、危険な追い越しをしまくって、
わずか10分早くつこうとしているドライバーと同じなのではないだろうか?
次の場所といっても、ここよりも面白くないかもしれないし、それならば遅れても「今感動している
ことを楽しんでいる」ほうがすばらしいのではないか?先のことなんて誰もわからないじゃないか?
そして、実際反省するような結果になってしまったのだ。
急げ急げでバスにたどり着いたら、まだ何人か来ていない。
一番遅れてやってきたのは、「あそこはボッタクリだから買うな」といわれたみやげ物屋で買い物を
していたチェコ人のブラスティミルであり、なにを探していたのかと思えば Made in England の
土産だったらしく、ところが買ってから良く見てみると中国製でがっかりしていたのである。
たしかに我々が遅れていたから、みやげ物屋にいって、ぼったくりにあったのかもしれない。そんな
意味では迷惑をかけた。しかし、事実としてラテン軍団はバスでしばらく待つことになったのだ。
わたしがいらんことをしなければ、あの待ち時間を座礁船を観察したり、花を摘んだりする時間にし
てあげれたはずなのである。一生に一度しかない瞬間を摘み取ってしまったわけだ。
今度からは、もう少し「監督」を緩める必要があるかもしれない。
しかし、もちろんわたしの行動が「間違ったことをしている」わけではないだろう。
現実にスケジュールはちゃんとこなすことができ、したのような潮の満干やすばらしい夕暮れも見る
ことができた。時間は守るにこしたことはない。ただ、「ラテン時間」も頭から否定するのは、やめ
ることにしようと思う。
というわけで、ダートムーア(Dartmoor)国立公園を歩いたときも、スペイン娘二人をやはりせかすこと
にしたのである。この日は特に5時間以上も歩く予定だったので、集団行動が大切だったわけでもある。
スペイン娘の一人であるローザちゃんは、英語はあまりうまくないが、自分でお金をためて3月の予定
で英国にやってきた。竹馬の友だという連れのアイダちゃんのほうが、英語のことは良く知っているよ
うに思うけれど、なにせローザちゃんは一生懸命しゃべろうとする。
馬ともうまくやってる。
ここでちょっと英語の話を書いておこう。
わたしだけかもしれないが、日本人は文法がまったく違い、発音も違うので、英語を勉強することは
難しいとおもっている。たとえばドイツ語だったら、同じような言葉が多いから簡単だろうと。
しかし、それは大きな誤解であることが、今回ギュンターさん(惜しくも今日帰ってしまった)と話を
していて良くわかった。どの人たちにとっても、他の言葉を勉強することは難しいことなのだ。
特に発音に関しては、外国のひとだからうまくいくなんてわけではないのである。
もちろん、日本人の耳は、アルファベットの言葉を聴くようにできていないのも間違いない。これは
大きなハンディキャップではある。常に母音が引っ付いてまわる日本語と、子音の組み合わせがある
外国語とでは決定的に違う。Lの発音もないからわからない。だから、ヒヤリングに関しては我々は
損な立場だ。
しかし、たとえばギュンターさんは、よく日本人でも話題になるTHの発音に悩んでいた。
奥さんが英語に堪能らしく、いつもTHの発音が変だと直されて困るという。
ローザちゃんの英語はとても難しい。YOUという言葉が「ジュウ」になるようだ。
他にもいろいろなところから、とてもおかしな単語が聞こえてくる。
先に登場した孤高のドイツ人マーカス君と学校で課題をやっていて、単語のスペルを聞いたらチンプン
カンプンになった。Aが「アー」、Eが「エー」、Iが「イー」なのである。これじゃまったく理解
できない。ところが、チェコでもアルファベットはそんな調子らしく、ブラスティミルも悩んでいる。
英語は英語以外の人々にとっても、「しゃべりにくい」言語なのだ。
さっき、ローザちゃんは一生懸命しゃべっていると書いた。
わたしも含めて、英語でもなんでも語学はそうなんだろうとおもうが、まず「しゃべって」みることが
とても大事であると思う。しゃべらないことには会話は成り立たない。
3月後、もしかしてローザちゃんはいわゆる「ぺらぺら」になっているのではないか?そして、連れの
アイダちゃんは、このままでは今と同じで、ただちょっと「英語が聞ける」ようになるように思う。
でも英語のテストでもしたら、きっと3月後でもアイダちゃんがローザちゃんより良い点を取るだろう。
それが本当におこるかどうかは別として、言葉の教育における「会話」の要素ばかりは、本人が実際に
試してみることしかないし、特に喋るほうばかりは、恥を捨てて、とにかく一生懸命「言う」練習を
しないとどうしようもないのではないだろうか?
日本でその教育をするとすれば、「間違った」ことを否定しない環境が必要だろう。
面白いことにローザちゃんいわく「スペインでも間違ったら先生に怒られる」なんていってる。語学
学校では間違った場合、怒ったり否定したりするのではなく、訂正してくれる。彼女はそれがとても
良いという。わたしもそう思う。
ギュンターさんはなぜ奥さんから英語を習わないのか?
それは、ギュンターさんが間違うと奥さんが大笑いしたり、バカにしたりするからだという。
恥を感じないような教育法が、言葉には必要なのだと痛感する。
子供に言葉を教えるとき、間違った時に笑ったり怒ったりしていれば、きっと無口な子供になるだろう。
文法なんていらないといっているのではない。文法は必要である。
しかし、言葉は学問ではないのだから、まずは話せるようになることが大事だ。
わたしは提案したい。
中学高校での英語教育において、採点することをやめるべきだと思う。公立高校受験からも英語をなく
す。そして、もちろん英語の授業は続ける。コミュニケーションを英語でとる練習をさせるのだ。
大学受験する人は自分で勉強すればよい。事実どうせ予備校などに通っているから同じである。
そうすればきっと日本人の「英語力」は格段に上がると思う。
この日は16kmも歩いたらしい。
ラテン時間に付き合い、少々急いでもらいながら一生懸命話を聞いた。
「どうせ理解できなくても重要な話をしているわけじゃないんやから、なんでも英語で喋ってみて!
川がきれいだとか、羊が何頭いるとかでもよいから!」
彼女は喋り始めた。なんせまず発音がすさまじく難しいから、たまにスペルを聞いたり、推察をいれた
りしながら。仕事のこと、彼氏のこと、おいのこと、父親のこと、姉の家にいる馬のこと。
「わしもそうおもう。(I think so)」
といったら、
「それはどういう意味?」
なんて調子の会話である。
彼女は今日、一生懸命英語を喋って、わたしはそれをなんとか理解できた。
いつの間にかスペイン語で家のことをカーサと言うらしいことも知った。(ほんまかいな?)
わたしも彼女から聞いたと思われることを説明するために英語を一生懸命喋ったから、少々は進歩したに
ちがいない。
英語に飽きると、スペイン娘らはなんと前に歩いていった。
やはりスペイン時間というのは、予定ではなくその場その場で更新されているらしい。
わたしはポーランドの親切な巨人クリスと、これまたスットコドッコイな話をしながら歩く。
そこらじゅうに羊の糞がころがっている。
たまに間違って踏んでしまうことがあると、自然に「Shit!(糞!=ちくしょう!)」いう言葉が出る。
今の人にとっては町で犬の糞を踏むくらいなものだろうが、昔の人はいろんな糞の中で暮らしていて、
常に被害にあっていたのだろう。
この「Shit!」ということばにリアリティーを感じた。
スペイン娘が定位置に帰ってきて、今度はアイダちゃんが少々英語を喋り始めたとき、バスがおいてある
駐車場が見えてきた。次に話をするのがいつになるのかわからないが、いつもこれまた難解な英語を言い、
わたしが一生懸命聞いてあげ、そのかわりビールをおごって貰っていたギュンターさんが帰ってしまった
ので、機会があれば聞いてあげることにしよう。
今週もこのように書き出してみると、なかなか面白い週であった。
来週はいよいよ「引越し」をすることになるだろう。
2004年2月23日から3月6日まで
一人暮らしを始めた。
このアパートの正面の2階である。
部屋は2つで、リビングルームとベッドルーム。あとは、トイレ、バスタブつきのバスルームといった
構成だ。引越ししたばかりで部屋が散らかっているので、どんな部屋かはまたおってご報告することに
して(などと書いているが、この先もっと散らかるのは目に見えている)、英国で部屋を借りる過程を
紹介させてもらおう。ただし、わたしの場合は4週ごとの短期更新であるから、長期に家を借りるとき
とは少々異なるかもしれないことをご了承いただきたい。
部屋は、そこらじゅうに出ている看板を頼りに探す方法と、不動産屋に行く方法。あとは、雑誌や新聞
の広告や、「貸します」欄を見るといった方法がある。わたしは最初、学校に紹介してもらった不動産
屋に行って一人で住むのに丁度良く、3ヶ月住めてかつ電話線の引いてある物件を探してもらったのだ
が、これがなんと築後100年はたつという、しかも基本的に木造の漁師小屋で、どうも一人で住むに
は物騒だと思い断ったら、それしかないということになってしまった。
次に、町の不動産屋にいったら「6ヶ月が最低の長さだから、3ヶ月ならホリデー用の業者にいって」
なんていわれる。学校が紹介してくれたのがホリデー用の業者だったらかそれは納得できた。
ホリデー用の業者を探しているうち、ふと学校で雑誌をめくっていたら、ホリデー用の貸家を並べて
広告しているページを見つけた。いくつか見覚えのある物件もある。電話番号が書いてあって、どこの
国でもそうであるように「お気軽にお電話を!」なんて書いてある。
しかし、わたしは電話ができない。外国で電話するほど難しいものはない。
特に、ややこしい待ち合わせ時間なんて話になったら、お手上げであること間違いない。
相手が英国人以外なら電話でもなんとかなるのであるが...
さて、今の時代には便利なものがある。そう、メールである。
いくつかの広告にはホームページのアドレスと、メールのアドレスが書いてあった。
そこで、手当たり次第に、予算と条件、一人であること、喫煙者ではないことなどを書いて送った。
すると、2つの業者から返事が来たので、こんどは直接会うことにする。
英国では、いきなり不動産屋にいっても物件をみせてくれることは少ない。まず、物件を見る日取り
と時間を決めて、不動産屋に出かけるか、直接現地で待ち合わせて物件を見る。
わたしの場合は、その待ち合わせ時間を決めるのも困難なので、直接あって身振り手振りというわけで
ある。
ひとつ目は、典型的な英国のフラット(アパートのことをフラットという)だった。もともと大きな家
だったものを、部屋にシャワールームをつけたりして間貸ししているのである。それでも、ちゃんと
リビングとベッドルーム、トイレつきシャワーがある。
英国の間取り表示は少々変わっていて、「1ベッドルーム、2ベッドルーム」なんて調子であり、大き
さが表示されていないことが多い。1ベッドルームというのは、日本で言えば1DKにあたり、リビン
グルームが必ず付いている。ちなみに日本で言うワンルームは「スタジオフラット」という。
あと、これは良く知られた話かもしれないが、「マンション」というのはかなり豪華な家のことをいう
のであって、日本で言うマンションとはまったく違う意味である。日本でいうマンションは「アパート
メント」であり、アパートもやはりアパートメントかフラットだろう。(フラットには間貸しの意味と、
アパートの意味が両方あるように思う。)
この話は学校でも話題になって、「日本では、ワンルームマンションというのがある」といったら、先
生のマイクは、「まったく想像できない」と困った顔をしていた。
さて、最初に見たフラットの印象はあまり良くなかった。暗い雰囲気なのである。値段は週85ポンド
であるから、月6.5万円といったところか。電話のことをきけば、「備え付けの公衆電話を誰も使わ
ないから、そこから回線をひいてくるよ」なんていってる。これは少々問題ありのようだ。
次に見たのが、今住んでいる部屋である。
この業者は隣町の Blixham にあるので、予約を取るにもバスででかけなければならない。
物件は、ペイントンの海岸近くにあって、よくわたしも出かけるパブに極近い。
現地で待ち合わせて、部屋をみると、これはなかなか良い。コの字形のアパートが海岸向き(東)に
たっているのだが、正面にあたる部屋である。全部電気式でかつ電気代別で週115ポンドと少々値は
はるけれど、独立の電話線がきているから、ADSLなどの細工もできる。なにより、漁師の家と違い
正面玄関、建物の入り口はカード式電子ロックなので、少々安心もできる。
ホテルが週200だったことを考えれば、それもよいかということで、決めることにした。
調べていくうちに、電話が引けるフラットが短期契約の場合なかなかないのがわかったというのも大きい。
デポジット(いわゆる敷金である)の払い方だけを決めて、次に会うときに最終のサインをするという
ことで業者と別れる。何事も慎重にというわけだ。ちなみにデポジットは4週間分である。少なくとも
こういったホリデーフラット契約の場合は、業者の取り分は家賃に含まれているということだった。
2日後、再び現場で業者と会い、契約書にサインする。週契約なので4週間毎の更新らしく、3ヶ月と
いえば約12週間であるから、それぞれの日付を入れた3枚の契約書にサインをする。
キーをもらって、はいどうぞといった調子で新しい暮らしが始まった。
部屋には冷蔵庫、電子レンジといった生活必需品はとりあえずそろっている。皿もコップもひととおり
ある。
あまりにもあっけなくキーをもらったので、いろいろ不安になってくる。いろいろな使い方なんかが、
わからんかったらどうするのかと思っていたら、案の定ボイラー式の温水は簡単につくれたのだが、
バスタブの上についている簡易シャワーの電源が入らない。これでは、まいど高いお湯をつかわないと
いけない。なんでもちゃんとチェックせんとあかんなぁと思いつつ、翌日電話のオープンを手伝って
もらうために事務所へ出向くことにしていたから、そのときに聞いてみることにする。
ほかには冷蔵庫の冷凍庫が霜だらけだったので、電源を切って格闘し、とりあえず全部除去した。
小さなキッチンが付いているが、このキッチンには換気扇も照明もない。暗いのはかなわないので、
とりあえず小さなライトを買うことにする。
あと、テレビだが、ここ田舎Paigntonでは、BBC1,2と民放2つの4チャンネルしか映らない。
以前いたホテルでは UK Historyというチャンネルが映っていたので良く見ていた。せめてその局と
BBC24くらいみたいものだと思ったので、これも翌日業者に聞いてみることにする。
翌日、土曜日だったが朝から業者にいった。Blixhamまでは、バスで片道2ポンドと高いが、この区間
を含めたエリアの一日乗車券が3.5ポンドなので、他にも買い物にいったりすることもあるから、
それを手に入れる。バスに乗って、運転手に言えば、普通に乗ればくれる紙のリボンに「一日有効」と
印刷されてでてくるといった按配だ。次に乗るときに、そのリボンを見せればOKである。
往復を買った場合は、帰り道に穴を開けてもらって乗車する。
わたしの住むPaigntonは、Torbay と呼ばれるエリアにあって、Torquay,Paignton,Blixham の3つの
町で構成されている。Torquayが一番大きいので、ちょっとましな買い物をするといえばそこに行く。
その区間を走る12番のバスはダブルデッカー(2階バス)がほとんどで、下のような眺めとなる。
さて、業者について、日本のNTTにあたるBTに電話開設の交渉をしてもらったら、なんと当日から
使えるということになった。2週間くらいかかるだろうと聞いていたので、これは助かる。ただ、支払
い方法や使用条件などを適当に聞いただけで、即日オープンとは、なんとも気楽な話だと思った。
もう1週間ちょっと住んでいるが、BTから送られてきたのは電話の使用条件に関する確認だけで、
まだどのように払えばよいかなどは来ていない。でるときにどんな按配になるものやら、少々心配である。
温水のほうは、天井からぶら下がっていた妙なスイッチが、その温水用だったようで、これは帰って
試してみたらまったく問題なく温水がでた。壊れていたんじゃないかと疑っていたことを反省する。
テレビに関しては面白いことになった。
CATVを契約できるかと聞いたら、それは難しいという。衛星という手もあるらしいが、なにが見たい
か聞くので、BBC24のヒストリーのといったら、フリービューなるサービスを紹介してくれた。
これは、いわゆる地上波デジタル放送である。まず、ホームページにアクセスして、住んでいるエリアが
受信できるかどうかを確認する。幸いにしてわたしのところはOKだったので、電気店にいって受信機を
買う。大体49ポンドから100ポンドくらい。値段の違いは、画質とかステレオ出力とかいろいろある
らしい。わたしは、69ポンドのを買った。電気屋といったが、これもなかなか面白い店がある。
商品を陳列していないのである。カタログが何箇所かにおいてあって、商品を探し、その商品番号を近く
の端末に入力すれば、その商品が在庫されているかどうかがわかる。あれば、備え付けの紙に商品番号と
数量を書いてレジに持っていく。レジで支払いを済ませると、レシートに受け渡し場所が書いてあるので、
店の中にあるいくつかの受け渡し場所で商品をもらうといった按配である。
さて、その日わたしはTorquayに行って、デジタルテレビの受信機と、照明などを買って帰ってきた。
バスの一日乗車券は、このように使えば非常にお得である...と、書きたいところであるが、実は受信
機を買ったは翌日だった。とりあえず、どんなものがあるか、聴取料は無料といっていたが、ほんとうに
無料なのかなどを確認して、カタログなどを持ち帰り、研究してからでかけたのだ。
聴取には別になんの登録も必要ない。ただ、今までつないでいたテレビのアンテナを、ビデオにつなぐの
と同じように受信機に接続し、受信機からテレビに映像と音声をつなぐ。これも英国では規格があるよう
で、日本のテレビのように配線がややこしくなく、一本のケーブルでつないでしまえばOKである。
ほんとうにちゃんと映るものか?同じアンテナで受信できるのか?無料なのか?
ケーブルをつないだあと、おそるおそるテレビをつけてみると、チャンネルサーチの画面が出ていた。
自動を選んで、しばらく待つと、UKヒストリーが画面に現れた。しかも、デジタルであるから、非常に
綺麗にうつる。これは良いものを手に入れた。なんでも聞いてみるものである。
ただ、沢山チャンネルがあるわりには、スポーツ系が少なく、Milton Keynesにいたときのようにサッカー
がいつも見れるわけじゃないのは、ちょっと残念ではあるが。
さて、今日はこのくらいにしておこう。
次回は、また文化の話などを書かせていただこうと思っている。
(なんて、えらそうなことを書いてますが、まだまだいろいろ「おかしな」ことがあるので、次回くらい
にはそれらの話がかけそうだというだけのことです。何やかんやいって、楽しい日々です。)
2004年3月7日から3月13日まで
(今回は短編調にしてみました)
におうのである。
一月10万円弱といえば、なかなかたいした出費である。
しかし、リビングルームに妙な、ほんとうになんとも妙な匂いがたちこめるのだ。
不動産屋にメールをすれば、たちまち4人ほどの人がやってきて、クンクンと匂いをかいで、
「こりゃ、妙な匂いだ。下の人がなんかやってるのかな?」
「専門家に聞いてくるから、またで直してくるよ!」
おいおい、あんたらは専門家とちゃうんかいな?
二日後に連中の一人がやってきて、流しにボカボカとゴミつまり用のバキュームをかけた。
わたしは、「ソレ、クチュリヲツカッテ、モウヤッテミタヨ」と、いった。
東京で引越しをしたときに、流しから匂いがしたとき絶大な効果を発揮したのでやってみていたのである。
彼は、「試行錯誤しかないよ」といって、なんと芳香剤をおいっていってくれた。
わたしはその後に買い物にでかけ、カーペットのにおい消しを買ってきた。カーペット全体にふりかけて、
その後掃除機で吸い取る。掃除機もついているのだが、この掃除機が世にも稀なる大騒音を出すので、誰か
の迷惑になってはいかんなと、つけたり消したりしながら吸い取る。
結果といえば、しばらくはそのクリーナーの匂いが勝っていたのだが、最近また妙なほうが勝ち始めた。
その匂いはリビングだけであるので、わたしが日ごろを過ごしているベッドルームでは問題ない。
飯を食べたりテレビを見たりといえば、その何かをへたくそに調理したような匂い(腐ってはいないし、
焦げてもいないが、なんせ妙な匂いです)をかぐことになる。
最近は慣れてしまって、ま、ええかみたいになっているが...
部屋といえば、わたしは強烈な暑がりで、日本でも冬は電気代が非常に少なく、しかし春先からクーラーを
使うといった生活をしていた。冬場にわたしの部屋を訪ねた妹が、「サティアンに生活してるの?」と、
言ってぶるぶる震えていたのを思い出す。
しかし、この部屋は季節がらもあるのか非常に寒い。わたしも歳をとったのか、毎日いくらか暖房を入れて
暮らしている。英国では集中暖房が非常に多いのに、この部屋は違う上、電気代別というから割り高なのだ
が、その話を不動産屋としたとき、「ワタチニハ、モンダイナイ!サムイノスキ!」なんていって、相手が
びっくりしていたのにである。電気代がかかりそうだ。
毎日、社会人一年目以来の自炊をやっている。
朝飯も、日本ではまず食べなかったのに、今はパンにルーバーブジャムぬってローストビーフを添えて食べ
ている。ルーバーブジャムはカナダのホストマザーが自家製を出してくれていた時に、とても気にいって
いたので、こちらでは買って愛用している。ルーバーブはおなかの薬にもなるらしいから、健康にも少々
気をつけているというわけだ。
ご飯も炊く。小さなふたつきの鍋に「アメリカ米」なる米を洗って薄く入れ、ミネラルウオーターを入れて
炊く。先日この話を日本の友達としていて、「煮る」といって笑われた。でも、まさに煮ているようなもの
である。水は、2リットルで80円くらいの水を使っている。カナダと違ってこっちの水は、問題ないのだ
が、どうも好きになれない。贅沢になったものだともおもうが、やはり気になるものは気になる。
電気コンロにかけて、お湯が暖まるまではパワーを小さくしておいて、温まったら強火にする。しばらく
すると吹いてくるので、再び弱くして、しばらくまっていると、表面にかにの穴みたいな穴が一杯みえて
くる。はんごうすいさんで、うまい飯ができるときのあの穴である。
飯はそんな調子で、わりとあっという間にできる。
おかずは、最近セロリを炒めるのが気に入っている。ミンチとたまねぎとイモの刻んだのを炒めて、その後
にセロリの刻んだのをたくさん入れる。塩、コショウ、砂糖少々にカレースパイスと、メキシコのチリソー
スに、白ワインをちょっと入れて、しばらく炒める。イモが少々やわらかくなったら、チーズをサイコロ状
にきざんだものを振りいれ、とけはじめたら卵でとじる。しばらく余熱で煮て?できあがりだ。
つばが出てきた...これはご飯にあうのである。セロリと半煮え?のイモがさくさくしておいしい。
たまに、上記の基本形ににんじんや、もやしなどを入れるのもよい。もやしは卵にあう。
辛いのが嫌いな人には向かないし、料理は色であるといった人にもお勧めできないが、毎度喜んで食べてい
る。煮物もやりたいが、なんせこの台所が煮物用にはできてないので、ちょっと敬遠している。
町を歩いていると、たまに面白いものにでくわす。
この車をご存知だろうか?
これは、トラバントという旧東欧諸国で使われた車である。
紙でできているの、プラスチックだのといろいろな噂があるが、本当のところはしらない。
ただ、元東欧諸国から来ている生徒には、自分の車だったという人がいるとは、以前に書いた。
先生のマイクによると、ペイントンには一台だけあるんじゃないかといってる。なんでも、例の壁がくず
れたときに、それこそ希少価値として多くの収集家が輸入したんだそうである。
ヨーロッパで暮らしているんだなぁと思うひと時だ。
朝、家をでると、何羽かのかもめに出会う。
我が者顔でよたよたと歩き回っている。
歩き回って?
そう、町を歩いているのだ。
わが「文化」の先生であるデクラン親父は、あらゆる動物が大好きだ。
上のブラックスワンは、2次大戦のときオーストラリアからチャーチルに贈られたものが増えたと言う。
右のガチョウ?は、まるで英国の国会で採決をするときの帽子をかぶっているみたいだ。
これらの鳥を見に行ったときも、デクラン親父はいろいろな知識を披露してくれたばかりか、非常に珍妙
な顔をした鳥を見かけてわたしが、「ヘンナカオ(Ugry face!)」といったら、「そんなことをいっちゃ
いけない。彼らは繊細なんだよ」なんて言う。
そのデクラン親父が唯一嫌いな動物。
彼がそういっているのだから、これは間違いない。
そう、かもめである。
彼はかもめを見ると「糞つくり機(Shit Maker)め!」とぼやく。
そこらじゅうにいるから、年中ぼやいていなければいけない。
かもめは、東京でいうところのカラスみたいなものだ。
彼らはゴミ箱を開けてあさったりする。我が物顔で歩いているといったが、現地の人いわく、攻撃的で
もあるという。
東京のカラスの話をしたら、デクラン親父は「カラスは問題ない。好きだ!」という。
カラスが攻撃的であるという話をしても、「糞つくり機にくらべたら...おいおい、血圧を上げさせ
ないでくれ!」なんて調子になる。わたしは、そんな調子をみて大笑いしている。
かもめはたしかにうるさいし、ドイツからきたガブリエラに言わせれば、「悲惨(Miserable)な顔」と
いうことになるが、わたしはあのなんとも人を小ばかにしたような顔が気に入っている。
かもめにえさをやるなと、あちこちに書いてあるけれど、子供はえさをやっている。ポテトチップスな
どにまとわり付くかもめは、まるで犬が芸をしているかのようだ。
今も、わたしの部屋の天井から、カタコトとかれらが歩き回る音がしている。
わたしもしばらくここに住んでいると、彼らが嫌いになるのだろうか?
町といえば、先日パブで飲み、帰ろうとして店を出ようとしたら、ドアのそばに座っていた初老の夫婦
に声をかけられた。
「来週も歌うのか?」
わたしが水曜に歌っているパブは、たしかに有名なパブではあるが、ここPaignton から車で15分ほど
離れた村にある。まさか、地元で声をかけられるとは思っていなかったのでトギマギした。
ピアノの女性Pamが休暇から帰ってきたので、わたしも復帰?したのが先週の水曜日。
今回はいつものサッチモに加えて、「王様と私」から「Shall we Dance?」を歌った。
王様と家庭教師の女性を歌い分けるもので、いわゆるデュエットを一人でやるわけである。
幸いにしてこれもウケたが、なんともかんとも...回を重ねてくると、プレッシャーがかかってくる。
地元の人は本当に期待しているのだろうか?でも、間違いなくそのパブにでかけると、わたしの意志で
はなく、声がかかってまつりあげられて歌を歌っている。
サッチモと、希望と栄光の国が、やはりみなさんのお気に入りのようだから、あまりはめをはずさない
ようにしておかないといけない。なにしろ、あのパブの雰囲気は地元の人たちの暖かい歌によって作られ
ているのだから。
ところで、ピアノの達人Pamの歳を、今日デビッドが教えてくれて驚いた。
私は50過ぎだとおもっていたが、なんと!75歳だという!!
わたしが書いてきた話を信じていただければ、写真などなくてもお分かりいただけると思うが、彼女は
実に颯爽とピアノを弾き、歌う。わたしが、歌えるのもまさに彼女のおかげである。どんなキーでも、
どんな曲でも、おそらく知っている曲はなんでもござれである。
75歳。
半分ほどの歳の私は、彼女ほど颯爽としているだろうかと、考え込んでしまった...
学校の話をしておこう。
毎週誰かがやってきて、また誰かが去っていく。
中には男であれ女であれ、非常に名残惜しい人も行ってしまう。
今週は、いつも笑っていたマニュエラちゃんがいなくなってしまった。彼女はわたしが来たとき、すで
にいたので、ある意味一番長く「あそんでもらった」一人である。
また、オーストリアの職人アルフレッドさんも昨日去った。
彼とはパブでいつも話しをしていたから、なんともさびしい。
チェコのアントニンさんもいなくなった。彼は会社のコンピュータ部門の責任者で、SAPというソフ
トウエアを最近導入したとかで、同じようなソフトを扱っていたわたしは、彼の悩みが非常によくわか
り、これまたよく話をしたので、これまたさびしさひとしおである。
ドライバーのデビッドが言う。
「わしは、さよならとは言わん。彼らは自分のところへ帰るだけだ。また連絡すればよい」
彼はこの地域のドライバーをして5年、わたしの何十倍も同じような経験をしてきたわけだ。
連絡さえとりあっていれば、出会いの楽しさだけが残るという。
明日は月曜日。また、なんにんもの新しい人がやってきて、学校のラウンジは知らないひとで一杯に
なる。週末には何人もが顔見知りになっていて...そして、良く知っている人とサヨナラをする。
今は、電子メールという便利なものがある。
これまた便利なデジカメでとった映像をお土産にして、みんなに送信しよう。
そうして連絡を取り合っていれば、またどこかで会えるかもしれない。
ギュンターさんとは、ハンブルグで。アルフレッドさんとはザルツブルグで。マニュエラちゃんとは
インターラーケンの近くで。クラウディアさんとはドレスデンで。親切な巨人クリスとはポーランドで。
いろんな人とメールアドレスを交換した。
そして、写真を送っている。
もしかしたら、誰かと東京あたりで会うことになるかもしれない。
たくさんの人と知り合いになれた。今後もどんどん増えるだろう。
学校の費用はバカにならないほど高いけれど、それを補ってあまりあるのが、英語の教育ではなく、
この「いろいろな人と出会うことができる」という事実なのである。
そして、海外に語学を習いに行ってやろうというような人に、極端に変な人はいないだろう。
ある意味、自然と「興味深い」タイプの人があつまってくるわけだから、こんなに刺激的な機会は、
なかなか無いと思う。大学にいくような話だと若い人が多いわけだが、短期の学校の場合は、人生
経験の豊かな人が多い。
わたしも、彼らの経験の一こまになれたらとおもい、日々の付き合いをしている。
今日はディビッドの為に、彼が好きだというリー・マーヴィンが1970年に歌ってヒットしたという
歌(Wandrin' star) を、ネットで探して練習した。むちゃくちゃ低い声なので難しいが、いつか披露
できるとおもう。デクラン親父同様、彼にも本当に世話になっているからだ。
本当に良い機会を与えてもらっているものだと、感謝の日々である。
(英国滞在編では、画像の精度を良くしたせいで、カナダのサーバーの容量リミットが近づいてきま
した。どうしたものかと思案中です。さて、次回もこんな調子になると思います。)
2004年3月14日から3月19日まで
流れを大切にしてきたつもりである。
この英国行きにしても、そういう流れだと思ったから決めた。
この学校も、ほとんど決めていたヘイスティングスの学校からのメールが、どういうわけかメールボック
スから消えるなど、変なことがあったので変更し、今とても満足している。
今、いろいろな国の人と話をしたり、いろいろなところへ出かけたりして楽しんでいるから、この決断は
間違っていなかったと思う。流れをうまくつかんだと勝手に解釈している。
カナダに住んだときも、まるで導かれるようにことがうまく進んだことを覚えている。
さて、どうして今になってそんなことを言っているのかといえば、どうもこの流れが英国から離れる方へ
向かっているように思えてきたからである。
最近、住めば都というか、ここ Paignton にしばらく住むことができたらよいなということで、学生ビザ
への切り替えを申請しようかと思い始めていた。そこで、必要なものを集め始めたのだが、なんと以外な
ところで、その「流れ」を感じたのである。
学校の在学証明が必要ということなので、日本にいる両親に頼んで母校である関西学院大学にいってもら
ったところ、次のような話になった。
本人でしか申請できない
FAXで送ってもらえばよい
メールもあるがたまにしかみていないので、FAXのほうがよい
作成には2週間ほどかかる
わたしは、この回答を妹からのメールで知ったので、ニュアンスとかそういったものがわからないから、
この回答に対して議論をするのは気が進まないのだが、最初非常に立腹したことは事実である。
本人しか申請できないといのはセキュリティーの理由からわかる。しかし、本人が外国にいて、両親に
頼んで申請してもらってだめというのはなぜだろう?それなら、メールやFAXならセキュリティーの確認が
できるというのだろうか?それに、申請後作成に2週間かかるというのは、わたしが1987年の卒業だから
膨大なデータの中から抜き出してくるのに1週間と半分ほどかかって、英訳するのに3日ほどかかるというの
だろうか?
関西学院大学といえば、「奉仕のための練達」とうすばらしいモットーをもった学校だと思ってきた。
誰かが在学証明書を求めているのなら、それは軽重はわからないにせよ、なにか重要なことが人生のなかで
おこっていることは間違いないだろう。
これは、あまりにも誠意のない回答ではないだろうか?
まぁ、学校というものは企業とちがって公僕に近いし、特に関学などは関関同立なんていわれて、それなりに
存在だけでステータスがあるらしいから、そういったサービスについておろそかになるのは、しょうがない
といえばしょうがないとも思うのだが...
もちろん、おろそかになどされておらず、しかるべき理由があるのかもしれないから、そのあたりはなんとも
いえない。しかし、この回答を見たときに、流れの悪さを感じたわけである。申請しないほうが、自分のため
だよといわれているように思ったのだ。
私の言う「流れ」とはこんな按配の小さな出来事を言う。
後記:
(この後、両親がもういちど関西学院大学にでむいて問い合わせたところ、なんとものの数分で作成していた
だいたとのことだった。この文をアップしてから2日後のことなので、まさかどなたかがこのページを
ごらんになったとは思えないから、前回の「誠意のない回答」は、何かの勘違いだったのかもしれない。
ひとまず、迅速に在学証明をすぐ作っていただいたことは事実であるので、ここに記しておく。
「流れ」がまた変わったのかも...)
この週末、となりの部屋に誰かが引っ越してきた。
今までわからなかった「欠陥」が明らかになる。
隣の部屋の会話が筒抜けなのだ。
外国といえば、プライバシーを大切にするから、そんなバカなことはおこらないだろうと勝手にきめていた。
しかし、まぁとなりのにーちゃんのうるさいことよ。
幸か不幸か、英語ができないので、会話の内容はさっぱりわからないが、雑音であることも間違いない。
理由のひとつとして、おそらく前の住人があけたと思われるなにかを引っ掛けるためのフック用の穴が考えら
れる。その穴はへたくそな処置でふさいであるのだが、密閉はできていない。
さっきは、私の部屋のほうの壁にねじをねじ込もうとしていたようで、がりがりと音が響き渡っていた。
おいおい、これ以上穴をあけんとってくれ!と思って、せきをしたりくしゃみをしたり、口笛を吹いたりして
みたが、これといって効果があるとは思えなかった。
うーーむ、臭いにもなれたし、この部屋が気に入ったから、ビザの申請も考えていたのだが、これでは長く
住むというには向かないように思う。
大声が聞こえるならまだしも、ちょっとした会話が聞こえてくるのは困る。
やはり、ここは一時的に住むための貸家のようだ。
またひとつ、「悪い流れ」を見つけたというわけである。
さて、景気の悪い話はこのくらいにして、学校での楽しい出来事などを書いておこうと思う。
アガサ・クリスティーの旧家である、Greenway house にでかけてきた。
前にも記したとおり、このうちにはまだ彼女の娘さんが住んでおられるので、中には入れないが庭園が公開
されているのだ。
きれいな庭園であるが、どういったわけか手入れされていない部分あり、残骸とも言うべき施設が残されて
いたりする。おそらく、まだ家自体がプライベートということで、本格的には手をいれられないのではない
だろうか?
ともかく、左の仏像ぽいのは鯛を足元においたりしているので、エビスさまかいななどと思いながら散策し
た。このツアーも、わたしがイングリッシュカルチャーコースをとっていて、何週も同じ内容ではという事
からデクラン親父が考えてくれたようで、しかし、結果的に11人もの人が参加し、彼は大満足であった。
「この庭園にここの生徒沢山連れて行くのは今回が初めてになりますから、わたしは少々緊張しております」
などと、ツアーの前にいつもと違ってかしこまった説明を入れていた。
アガサ・クリスティーといえば、最近いくつかの作品の朗読のCDを買ってきて聞いている。
ヒヤリングの能力を高めるためだ。本も一緒に買ってきて、聞きながら読むという作戦を考えたわけである
が、これがなかなか大変で、いまは聞く一方である。町を歩きながら、同じCDを何度も聞いている。
ちょっとずつであるが、内容がわかってくるのがうれしい。日本語で読んだことのある作品なので、わかっ
たような気分になるのだろう。なにしろ、本で確認してみても、単語や構文が難しくて、本当のところは
よくわからないからである。ま、ヒヤリングの練習と思って、聞いている。
ところで、この庭園の中で皆と歩いていると、またも「あれ」があった。
「あれ」とは...
庭園にいったのは水曜日であり、向こうから来た老夫婦に「今日も歌うの?」と声をかけられたのである。
もはや、この一帯で悪いことはできそうにない。
その夜、いつものようにPAMの伴奏で、ラビアンローズやアマポーラ、慕情などを披露していると、常連
の方の一人が小さな封筒を手渡してくれた。
歌い終わってあけてみると、私が歌っている写真が入っていた。
これは嬉しかった。
英国滞在の良い記念だ。
沢山お礼をいって、今回も気分良く引き上げてきた。
さて、今週は学校のクラスでプレゼンテーションの課題があった。
わたしは、「ブッシュ嫌いではあるが、アメリカ人は嫌いではない」という話を、7年前の一周旅行の中で
であった親切な人々の話を持ち出して行った。この話がおもしろかったかどうかは定かではない。しかし、
ほかの方々の話は実に興味深かった。
ロシアから来ているニーナさんは、生物学者である。ロシアのなかでも奥地に位置するヤクーツク(だった
とおもう)の出身で、今はモスクワで教鞭をとっている。彼女の話は、ヤクーツクでの生活で、なにせ寒い
から靴ははかず、毛皮でできた覆いのようなものを靴代わりにして生活しているといった話をしてくれた。
しかし、やはりロシアのザンクトペテルブルグから来ているエレナさんの話の中で、ザンクトペテルブルグ
の治安などの話から、イタリア人の神父さんであるアンドレアさんが、「ゴルバチョフ以降と今はどう違う」
という非常に微妙な質問をしたところから、ニーナさんは「ゴルバチョフには感謝している」という話を
熱っぽく話し始めた。エレナさんは、ザンクトペテルブルグで他の土地からの移住者を管理するといった
仕事をしているといっていたから、その手の話にはあまり乗り気でないようだったが、彼女自身「治安は
いまひとつといっておく必要がある」なんていってた。
そして、ゴルバチョフに感謝しているのはニーナさんだけでないことが、そのあとわかる。
ドイツの田舎からやってきたというダニエルさんのテーマは、「1945年から1990年までのドイツ」
というこれまためちゃくちゃ興味深いものだった。そして、話の内容を聞いて驚いた。
彼は、東ドイツの西ドイツとの国境にすんでいたという。
国境にはフェンスが張り巡らされていたという話は伝え聞いていたが、彼がいうには、そのフェンスから
東ドイツ側5kmのところにもうひとつフェンスがあって、彼のうちはそれらのフェンスの間にあったと
いう。2つ目のフェンスを行き来するのにはパスポートのような許可証が必要で、かれはいつもそれを
携帯していた。そして、彼の友達がもし彼のうちに行こうとすれば、ふたつき前に申請を出す必要があり、
それでも認められないことがあったという。かれも、ゴルバチョフに感謝をしていた。
そこで体験談を話し始めたのが、ドイツからきているファンシーショップを経営しているガブリエラさん
である。彼女のうちは、西ドイツの東ドイツとの国境にあった。つまり、ダニエルさんとは逆の立場だ。
彼女によると、国境であるエルベ川(だったと思う)を越えて西に入ろうとする人が一杯いたという。冬は
川が凍結するので、突破しようとするらしい。しかし、国境には地雷がしかけてあったりで、多くの人が
亡くなったという。そして、話しはなぜかホロコーストの方へと向いていった。彼女はかなりの年配であり、
お父さんが語った当時のことを思い出すと、やはり贖罪の気持ちが消えないという。しかし、もう一人の
ドイツ人であるもうひとりのガブリエルさんは、ドイツの若い世代にはやりすぎの声もやはりあるといった。
彼女いわく戦争の賠償金の利子をいまだに払っているという事実などが、そういう気持ちを持たせるという。
ダニエルさんは東ドイツの立場からか、「しかし連合国は、一次大戦の敗戦処理でドイツをあまりにもいじ
めたから、2次大戦が起こったという経験から、西ドイツは復興にかなりのお金をもらってる」といった話し
を持ち出して、その利子の話しについて反論をする。
終了の時間になったので、そこでおしまいになったが、わたしは、いつもと違い、黙って、しかし大きく
うなずきながらこのやり取りを聞いていた。
この学校には、旧東諸国の人がかなり来ている。だから、わたしも機会があると、今日のような話を質問し
てみることにしていた。今日は、アンドレア神父がその話を持ち出してくれたし、話があまりにも興味深か
ったので、なにも口を挟みたくなかったのだ。
この手の話題は、学校のあちこちに転がっている。
以前、ロシアからきたコンピュータを仕事にしているというアルトールに、ドライバーのデビッドが質問を
したことがあった。
「フルシチョフ以降で、一番酷かったえらいさんは誰?」
かれは、どうしても答えをすることができず、「スターリン」と答えた。
なにかその雰囲気に、とても重たい、なにか抑圧されたようなものを感じたのは、私だけではなかったと思う。
デビッドもそれで質問をやめてしまった。
もちろん、スターリンはフルシチョフの前だ。そして、世界的にヒトラー以上の残虐者として認められている。
でも、冷戦時代のソ連の主役たちは、フルシチョフ、ブレジネフ、チェルネンコ、アンドロポフ、そして、
ゴルバチョフなのである。デビッドの質問は、どちらかといえば、ゴルバチョフ、エリツィンあたりと、その
前との違いを聞きたかったようだが、アルトールはそれもできなかった。
今回のエレナさんの受け答えにも、なにかそういうものを感じた。
それは、先入観かもしれない。ニーナさんは、あけすけにものをいう。
チェルノブイリ原発事故のとき、情報公開が遅れたことを批判していたし、今は原発自体が観光ルートになって
いることも怒っていた。だから、みながみなそういうわけじゃないのも明らかだが、何人かのロシアの人に、
影のようなものを感じてしまうのも間違いないことだ。
ちなみにザンクトペテルブルグといえば、わたしがもっとも愛する指揮者の一人である、エフゲニー・ムラヴィ
ンスキーが率いたレニングラード・フィルハーモニーのふるさとだ。いまは、もちろんザンクトペテルブルグ・
フィルハーモニーであるが、彼女に、ムラヴィンスキーのことを聞いたら、「知らない」という。
発音が悪いのかと思ってニーナさんに聞いたら、彼女は知っていて、エレナさんに尋ねてくれたが、やはり知ら
ないといった。
わたしは唖然としたが、ニーナさんもあとで「不思議だわ」といっていた。
ムラヴィンスキーといえば、クラシック音楽のファンならほぼ誰でも知っている偉大な指揮者である。もう、
15年以上前になくなったが、エレナさんはそんなに若くないと思うので、彼女がムラヴィンスキーをしらない
というのは、学校の音楽の先生をしらないといっているようなものだと思う。
それとも、もっとなにか事情があるのだろうか?まったくロシアとは不思議なところなのかもしれない。
さて、話題はかわるが、ニーナさんは、東のほうからきたので、いわゆる東洋系の顔立ちをしている。
わたしはニーナさんがロシア人だと聞いたときから、ひとつ聞いて見たいことがあった。
ある日、休み時間に聞いて見ることにした。
「デルス・ウザーラを知ってますか?」
はじめ、彼女は何のことかわからなかったみたいだが、何度がその名前を繰り返すうち、やっとわかってくれた。
「デルス・ウザーラ(イントネーションが独特)ね!映画みたわよ!わたしの故郷の南にある国の話よ!」
これだから、この学校は楽しい。
「デルス・ウザーラ」は、黒澤明監督が旧ソ連で過酷な環境の下撮影した映画である。原作があり、もともと黒澤
監督が興味を持っていたという話しは、土屋嘉男さんが書いた「黒澤さーん」という黒澤監督との思い出をつづっ
た本に記されている。ロシア中東部の大自然を生きる猟師デルスと、その地方の調査にやってきた調査官との美し
くも悲しいものがたりだ。デルスは東洋系の顔をしていたので、ニーナさんに聞いてみたのである。
その映像はどこまでも美しい。わたしの好きな黒澤作品のひとつでもある。
ところでそのやり取りを聞いていた、ファンシーショップではないほうのガブリエラさんが質問してきた。
彼女はドキュメンタリーフィルムの製作会社で、経理の担当をしているから、映画には詳しいはずだ。
前日には「ベン・ハー」の話をし、またメル・ギブソン主演のキリストの映画についても意見をいっていたからで
ある。
「黒澤明ってしってます?」
彼女は答えた。
「しらない。どんな作品が有名?」
「セブン・サムライ(七人の侍)」
「あ、そ」
おそらく、彼女はサムライときいて、日本の映画監督だなと思ったに違いないが、知らないようだった。
これは、ムラヴィンスキーとならんでショックな出来事だった。
黒澤監督は、フィルム会社の社員さんにも知られてないのか...
まぁ、「セブン・サムライ」ときいて、興味をもつ人は少ないのかもしれない。
黒澤監督が、世界の映画にどれだけの足跡を残しているかなど、その作品と人物に興味がなければ、いまや知ら
ないひとの方が多くてあたりまえだ。日本人でも特に若い人はしらない人が多いに違いない。
まだ、見たことがないという方は、ぜひ、DVDなどでごらんいただければと思う。
そいうえば、イタリアから来たラウラが、「キタノの映画はすばらしい!」というから、「わたしゃ、みたこと
ない。ほんとに興味あるけど、見る機会がなかった。日本じゃ座頭市以外興行的に成功してないよ。ところで、
彼は日本ではとても有名なコメディアンだって知ってる?」ときいたら、「信じられない!!」と、いってクビ
を振った。北野武監督がコメディアンであるということは、あまり知られていないらしい。
と、いうわけでこの英国の学校では、いろんな国の人が入り混じっていろんな話しができる。
また明日、なにか新しい話が聞けるに違いない。
そう思うと、ビザの延長申請をして、しばらく英国で過ごすのも良いかなと、やはり考えてしまう。
しばらくは流れを見守ることにしようとおもう。
(さっき台所でご飯をつくっていると、お湯がでなくなりました。「流れ」は本当に悪いようです...)
後記2:
在学証明もいただけたようですし、ちょっと流れの様子に注目しないといけないようです。
2004年3月19日から3月26日まで
今回は、かなりキザ?なことを書かせていただこうとおもう。
そろそろ、我が町 Paignton(ペイントンと読みます)にも春の兆しがあちこちに現れている。
綺麗な花を見るたびに、わたしは聖書の一節を思い出す。
「栄華を極めた時のソロモンでさえ、野の花のひとつほども着飾っていなかった」
10年ちょっと前、普通に会社に属し、自分なりに忙しく働いていた。
いろいろあって会社をやめ、突然のようにしばらく「忙しくない」日々がやってきた。
2月のある日、そのころ住んでいた千葉は松戸の郊外の田舎道を歩いていると、やはり春が少しずつやってきて
いたのか、一輪の花が道端に咲いているのを見つけた。その道は、いつも通勤の時に歩いていた道である。
今となってはどんな花だったか色さえ思い出せない。
しかし、とてもとても綺麗だった。
今まで何度も目にした花だったと思う。でも、初めて見たかのように思えた。
ふと、先に書いた聖書の一節が頭に浮かんだ。
もちろん、花が綺麗だと思うのはそれがはじめてのことではなかった。
庭にさく花、庭園の花、山に咲く花。いろいろなところで、綺麗な花をみてきたし、花を見るのは好きだった。
でも、道端に咲く花がそんなに綺麗だと思ったことはなかった。
おそらく、前の年の春にもそのあたりに咲いていた花なのだろう。
今考えてみると、ほんとうに普通に咲いている花だったのだろうと思う。
数年後、カナダで神様に出会う。
このホームページ(ここでは日本語での一番初めのページを指します)に載せているとおり、モレーン湖という
美しい湖に行ったとき、「神様が創らずして、この綺麗な風景が有り得るはずがない」と感じたことで、わたしは
神様と生きるようになった。
今、はじめに書いた聖書の言葉が、より鮮明に理解できる。
花も神様が人の為に用意してくださっている存在だ。
それは牛にえさを与えるためでもあり、わたしたちにひと時の憩いをいただけるためでもあるだろう。
身の回りには一杯の奇跡が満ち溢れている。
野の花も、鳥のさえずりも、すべて気がつきさえすればとても美しい。
すべて神様が用意してくださっているのである。
自分という存在も、野の花と同じように存在しなければならないからある。
その役目がどういうものかということを、自分自身が知る必要なんてない。
野の花が、なぜ自分は咲いているのかと悩むなんてないだろう。
今日は誰かに憩いを与えただろうか?と考える事もない。
今日は犬が歩くのに邪魔になっただろうか?と考える事もない。
何の気なく歩く人に、ふと憩いを与えてくれる。
幸か不幸か、人には自分を評価したり、余計なことを考えたりすることもできる能力が与えられている。
ついついややこしいことを考えがちだ。
そんなときは、野の花を眺めてみればよいと思う。
いつの間にか神様の意思に触れて、落ち着くことができるかもしれない。
そして、野の花と同じようにすれば良いのである。
生きているということは、何かの役目を与えられているのだから、それだけで充分なのだ。
ただし、人には考える心が与えられている。
神様の力を理解したならば、それを感謝し、与えられた力を外に向けて少しずつでも良いから発揮でき
れば、なお野の花に近づくことができるだろう。
不思議なほど人の才能というか得意分野というのは、それぞれの人で違っている。
仕事でも、趣味でも、何でも良いと思う。
与えられたそれぞれの得意を、誰かの為に少しでも発揮できれば、何も言うことがないのではないか。
最後にわたしの大好きな讃美歌の歌詞を載せておこうと思う。
日本の讃美歌第2編26番「ちいさなかごに」 詞: Alice Jean Cleator
ちいさなかごに花をいれ
さびしい人にあげたなら
へやにはかおり満ちあふれ
くらい胸もはれるでしょう
あいのわざはちいさくても
かみのみ手がはたらいて
なやみのおおい世のひとを
あかるくきよくするでしょう。
「おはよう」とのあいさつも、
こころをこめて交わすなら、
その一日おたがいに、
よろこばしく過ごすでしょう。
あいのわざはちいさくても
かみのみ手がはたらいて
なやみのおおい世のひとを
あかるくきよくするでしょう。
さて、明日早朝からサマータイムだ。春どころか夏時間である。
わたしの英国滞在も、早いものでもう3月以上が過ぎた。
このまま滞在するか、はたまた他の土地に移るかなど、いろいろなことが待っていると思う。
それらを楽しみに、また日々を送ってゆきたい。
(このページもちょっと大きくなったので、次回には英国滞在記(その3: Paignton 編2)を作ろうと思っています。)
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